《春宵》
19人姉妹の住む家、と言っても、夜が深まればさすがに、欠伸の出るような、平和で静かな時間が訪れる。
買ってきた本を開いて、気付けばもう午前一時。立夏以下のおこちゃま組は――立夏が中学生というのが未だに信じられないが――とっくに眠りに就き、それ以上の姉妹達も、日付が変わる頃にはだいたい眠りについている。もしかすると、今起きているのは自分一人かもしれない。
俺もそろそろ、風呂に入るかな……。
肩を回すと、ゴキゴキッ、と素敵な音が身体の内から鳴った。疲れてる。立ち上がってうんと伸びをすると、また何処からか小気味のいい音がなった。そりゃあ、毎日あれだけ小さな妹達と遊んでいたら疲れるのも当然だ。
でも、悪い気はしない。今までずっと一人だった。それがお兄ちゃんと呼ばれ、慕われ、遊んでやる日がこようとは。
ここに来てから自分自身、随分と明るくなれた気がする。来る日も来る日も同じことの繰り返し。そんな単調さとは無縁の場所に、今の自分はいる。天涯孤独だった自分を暖かく迎えてくれた姉妹達には本当に感謝していた。でも、慣れない家族での暮らしという中で、無理をしている自分がいるのは否めないところで、そして、そんな気持ちを抱いている自分が、情けない。
――コンコン。
不意のノックが、俺の思考を打ち消す。どうぞ、と声を返した。ここに来たばかりの時はノックされても誰なのか判別出来なかったが、あれから三ヶ月。そろそろ、ノックの主が誰なのかぐらいは、俺にも判るようになってきていた。さっきの静かな、しかしハッキリとした扉の叩き方は、霙姉さんか海晴姉さんか。
「入るぞ」
静かに扉が開かれ、トレードマークのマントをなびかせながら入ってきたのは、次女の霙姉さん。予想は当たりだ。俺もトゥルー長男らしくなってきた。
「どうした、私の訪問がそんなに嬉しいのか?」
俺の顔を見て首を傾げる霙姉さん。どうやら喜びが顔に出たらしい。
「ノックの音で誰だか予想してたんですよ。で、予想通り姉さんだったと」
「我が弟ながら、変わった奴だな、オマエ」
「この家よりは普通だと思いますけど」
ふっ、と霙姉さんが笑う。
「それはオマエ、地上の楽園と比べたら何処の国もマシに見えるのと一緒じゃないか」
「比較対象が極端過ぎましたね」
二人の忍んだ笑い声が、深夜の部屋に響む。姉さんの、深い蒼をたたえた瞳を見る。
最初は吹雪と並んで無表情な人だと思っていたけど、凛とした見た目に反して、暖かな人だということに俺は気付き始めていた。割と饒舌だし、こんな風にジョークにものってくれる。でも、何故こんな人が終末思想なのか。そこはまだよく解らなかった。
「それで、どうしたんですか? こんな時間に」
「夜這いと言ったら、どうする?」
「その気持ちは嬉しいんですけど、実は俺、虹子のことが……」
「……」
スッと無言で姉さんが取り出したのは、漆黒の携帯電話。
「姉さん、どこにかけるつもりなんですか」
「警察に決まってる」
ピッピッピッと小気味よく、三回ボタンを押す。マジで110番だ。
「すいません、冗談なんで通報だけは勘弁して下さい」
「残念だ。ペドフィリアを通報するなんて、いい経験になると思ったんだが……」
心底残念そうに呟きながら、携帯を仕舞う。……やっぱり、この人のことはよく解らない。
「冗談はともかくだ」
ほら、と掛けていたジャケットを寄越してくる。
「急に甘いものが食べたくなって、コンビニに行こうと思ったが一人では心細い。だから、エスコートしてくれ」
「はぁ……また、ドラ焼きですか」
「……どうして解る」
心なしか悔しそうな表情を浮かべる姉さん。弟に見透かされているようで面白くないのだろうか。その妙な意識が可愛らしいのだが、からかってへそを曲げられ、耳元で終末を囁かれても困るのでこれくらいにしておく。
「解りました。じゃあ、行きましょうか」
腰を上げ、ジャケットを羽織る。もう春といっても差し支えなかったが、夜はまだ冷える。マントだけでは寒いだろう。クローゼットを開けて、ぶら下がっていた黒のストールを取り出す。これなら丁度いいだろう。
「使って下さい。外、多分寒いですよ」
「そうか、ありがとう……」
俺の手からストールを引き抜き、そのまま流れるような仕草で首に巻く姉さん。そして一言。
「終末の色だな……」
褒められてるのか貶されてるのか判断に苦しんだが、とりあえず礼を言って、俺達は部屋を後にした。
※
眠そうなコンビニ店員に見送られて外に出ると、春の夜独特の冷たさを持った風が、二人の前を駆け抜けていく。思わず、身を震わせた。
空を見れば星はなく、重く厚い、灰に黒を注いだ色の雲が低い天井を作って、夜を演じている。もう四月のほんの手前だというのに、まだ冬が居座っているような不安定な気温。
また吹いた風が、がさりとコンビニの袋を鳴らす。中には明日のおやつと思って買ったポテチとコーラが入っていたが、隣で歩く霙姉さんを横目で見て、思う。俺もドラ焼き、暖めたのにすればよかった……。
「寒空の下で食べるのも、やはり良いものだ」
満足げな表情で――と言っても、普段から姉さんを見ていないと無表情にしか思えないだろう――どら焼きを頬張る姉さん。黒のストールの上で、はっきりと見える白い湯気が、風に吹かれて後ろに流れて、暗く沈んだ街並みの中に吸い込まれていく。
姉さんの小さな口に食まれていくドラ焼きは、暖かそうで、普段は別段食べようとも思わないのに、とても美味そうで、
「姉さん、俺にも一口……」
「駄目だ」
即答だった。
「姉さん、酷いや……」
「ドラ焼きを食べるのは私だけでいい……」
「寝る前にそんな食べると、太りますよ」
「終末の到来の前には些細な問題だ」
冗談で言っているのか本気で言っているのか、そのポーカーフェイスから読み取ることは出来ない。しかし姉さんなら、1999年7の月に地球が滅びること前提で暮らしていたとしても、あまり違和感がなかった。貯金、全部ドラ焼きに使っちゃったとか。
「……オマエ、何か失礼なことを考えてないか?」
「いえ別に」
また顔に出ていたようだ。いかんいかん。俺も姉さん並のポーカーフェイスを心がけないと。
「まぁいいが……ほら」
俺の目の前に、差し出されるドラ焼き。
「私も外道じゃないからな。付いて来てくれたお礼だ。それとも、弟君は綺麗な姉の口移しがいいのかな?」
「気持ちは嬉しいんですけど、虹子以外とそういうのはちょっと……」
「……」
ピッピッピッ。小気味よく押される携帯のボタン。そして聞こえてくる、はっきりとした音声。
『はい、110番警視庁です』
ホントに110番されていた。
「ちょ、ちょっとタンマ!ストップ!やめて!」
慌てて携帯を奪い、電源ボタンを押して通話を切る。かつてない嫌な冷汗が頬を伝った。
「マジで止めてください、ホント軽い冗談、アメリカンジョークなんで!」
「残念だ。ペドフィリアを通報するなんて、いい経験だと思ったんだが……」
さっきよりも随分扱いが酷くなっている気がする。もうこれ以上このネタはやめておこう。今度は隠れて通報されそうだった。蔑まれた目で見られるのもアリといえばアリだったが、流石にリアル逮捕プレイを楽しめるほど俺は訓練されてはいない。
「それにしても、虹子といい青空といい―――いや、皆か。よくオマエに懐いてるな」
「みんな、というのは語弊がある気がしますけど」
放り込んだ甘い筈のドラ焼きが、口の中でほんの少し、苦味を持つ。氷柱や麗の顔が自然と思い浮かんだのは、俺自身、まだどう接していいか戸惑うところがあるからだろう。
この街に来た当初よりは打ち解けた気もするけど、それでもよく解らないところはまだ多い。でもそれは、他の姉妹達にしたって同じことだ。俺一人、皆と過ごした時間が違いすぎる。
それは些細な所で現れる。おはようの挨拶で、食卓で。昼下がりの何気ない会話で。夕飯の支度で。そして、おやすみの挨拶で。
今まで、あの家という空間を形作ってきた19の姉妹達のやり取りが、俺という異質を際立たせる。気にしすぎだということ、19人を20人にしてくれようと皆が協力してくれているということは、勿論解っている。それでもまだ俺は、家族に成りきれていない。それがただ、寂しかった。
「まだまだ、本当の家族って訳にはいかないですよ……」
袋からコーラを取り出して開け、勢い良く残ったドラ焼きを流し込む。口の中の痛い炭酸の感触が、濁った思考を少しだけ晴らしてくれる。そして思う。早く、本当の家族になりたい。逃してしまった皆との時間を取り戻したい。そして一緒に――、
「一緒に、終末を迎えるか?」
「え……?」
思いがけない霙姉さんの言葉に、呆けてしまう俺。終末。それは不吉な言葉。何もかもが終わってしまうこと。なのに今、俺を見詰めている姉さんの顔は本当に暖かく微笑んでいて、だから俺は返す言葉が見付からず、間の抜けた顔で、次の言葉を待つ。
「生物の過ごす時間は、それぞれ違う」
歩みを止め、姉さんはそっと、街路樹の太い幹に手を置く。
「花だってそうだ」
見上げれば、そこには桜の花。他の木はまだ一輪も咲いていないのに、この木だけが、綺麗な花を寒風の中に晒している。
「早く花を散らす木もあれば、そうでないものもいる。しかし、長く咲けばいいものではないと私は思う。少なくとも、私が花なら」
「……なら、早く散ってしまった方がいいんですか?」
「そうじゃない。私はただ」
首にまいた俺のストールをゆっくりと撫ぜて、
「散り逝く時を、訪れる終焉の瞬間を、大切な人達と一緒に迎えたいだけだ」
優しく、呟いた。
ざぁっ、と風に吹かれた梢が音を立てる。でも姉さんの纏ったマントは微動だにせず、その細い体を包んだままで。でも音は、確かに今も聞こえていて。
「帰ろう」
身を翻して、姉さんは歩き出す。石畳を叩くしっかりとしたヒールの音が、何処か遠くで囚われていた俺の意識を覚まし、歩みを始めさせる。目の前を行く黒い背中に声をかけようとするが、でも、やっぱりかける言葉は俺には探し出せなくて、
「……はい、姉さん」
それだけを口にして、隣に並んだ。
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