《Escape Fredy !!》
「そういえば氷柱。今日はエイプリルフールだな」
「下らない嘘ついたら、この荷物全部持たせるわよ下僕」
今日は四月一日。オオカミ少年も大手を振って歩ける、うららかな春の午後。爽やかな風が吹きぬける桜舞う並木道を、俺と氷柱は仲良く談笑しながら歩いていた。
「実は俺、皆と血が繋がってないんだ。だから氷柱、結婚しよう! 子供は十二人がいい!」
「黙って五回死んで」
にべもない氷柱の言葉も何処か暖かく感じるのは、きっとこの陽気のお陰に違いない。今日の最高気温は二十度ジャスト。長い冬を超え薄着でいられる快感は筆舌に尽くしがたく、体だけでなく心も軽くなった気分だ。
しかしいくら心が軽くなっても、両腕がちぎれる程に持った買い物袋は重いまま。19人分の買い物とくれば当然その量は膨大で、さっきから筋肉が悲鳴を上げている。本来なら三人以上で行くのだが、今日は俺がいるから大丈夫だろうということで、氷柱と二人で近くのスーパーに派遣されていた。今はその帰りである。
「しかし、こう平和だと何だか刺激が足りないな。氷柱のツインテールが勝手に動き出して街行く人達を捕食するとか、そういうショッキングなイベントが起きないもんだろうか」
「そういうのは、死霊のはらわた辺りの監督に頼みなさい」
「ぐぇぇ……ひょうちゅうの髪が首に絡みついてきて苦しい……助けてくれぇ……」
「見えないからって適当なこと言うんじゃないの! あと、ひょうちゅうって言うな!」
そうやってじゃれあう内に、俺達はトゥルーハウスの門前へと辿り着く。我が家ながら立派な門構え。高名な建築家にデザインを依頼したという、この辺りでは名の知れた大邸宅だ。20人も暮らしていて、なおかつ象まで飼っているのだが当然といえば当然なのだが、それにしてもデカイ。
……そういえば最近、象のフレディを見てなかったな。
家の中に入り、荷物をリビングに置いて後を蛍と春風さんに任せて庭に出る。折角こんなにいい天気なんだ。象を見ながら過ごすのも乙なものだろう。
これまた広い庭の一角を占める、木造の小屋。それがフレディの家だった。小屋は一応飼い主である虹子――二歳児なのでまだ世話は出来ないけど――の趣味で、リボンやらレースやら可愛らしい装飾がなされ、入り口には『フレディのおうち』と書かかれたプレートが下がっている。二歳児ながら中々の達筆だと思うのは、親バカならぬ兄バカなのだろうか。
「おーい、フレディー」
カランカランとプレートを鳴らしながら入ると、そこには二人の先客。
「「あ、おにいちゃん!」」
二つの弾んだ声が重なる。夕凪、それと虹子。そして、
ぱおーん。
挨拶をしてくれたのか、俺に向けて鼻を持ち上げるこの小屋の主がいた。相変わらずのピンクボディが目に痛い、象のフレディだ。
「あのね、いまね、フレディにお水あげてたの!」
「お、ちゃんと世話してるんだな」
とてとてと歩いてきた虹子を、いい子だと抱き上げてやる。えへへと虹子の喜ぶ声。それを見て夕凪も飛びついてきたが、こちらは華麗に回避。これは年少組の特権だ。抱擁をかわされた夕凪は「ひどーい」と拗ねた声を上げたが、すぐに気持ちを切り替えてまたフレディの方へと戻っていく。虹子の言っているように、水を飲んでいるようだった。
しかし、本当に変わった象だ……。
目の前できゃいきゃいと騒がれているフレディを見ながら、初めて対面した時を思い出す。まさか日本国内で個人的に象を見ることの出来る場所があるなんて、ここに来るまで思ってもみなかった。しかも体がピンク色。カラーひよこの類かと思ったが、どうやら先天的にこの色らしく、こんな奇特な生き物が地球上に存在するという事実に酷く驚いたものだ。まぁその衝撃も、突如自分に出来た、美人19人姉妹の前にかき消されてしまったが。
ぱお、とフレディがまた鳴いた。さっきから鼻ですった水を、せっせと口に運んでいる。よほど喉が渇いていたのか、結構なスピードでピンク色のバケツの中の水が減っていっている。
「バシャバシャ飲んでるなー」
「そりゃお兄ちゃん、お砂糖いっぱいに魔法のおクスリたっぷりな、夕凪と虹子ちゃんの特製ブレンドだもん!」
ねー! と笑顔を合わせる二人。
……特製? 砂糖は解るけど、魔法のお薬ってどういうことだ?
何故だかその言葉が妙に引っかかって、俺はピンクのバケツの中を覗き込む。そこにあるのは、何の変哲もない砂糖水―――に見えたが、よく目を凝らすと、水の中に何か浮かんでいる。ひらひらした、ピンク色の何か。
ひょい、と摘み上げる。やっぱりピンク色の、これは紙だ。一枚だけじゃない。まだ何枚かある。もともと大きい一枚だったものが、水の中でかき混ぜられて散り散りになったようだった。何でこんなものがバケツの中に?
「あ、駄目だよお兄ちゃん! それ取ったら!」
「え? 何で?」
「だって、それが魔法のおクスリだもん!」
ねー! とまた笑顔を合わせる二人。非常にご機嫌だ。だが俺は笑えない。これが、お薬……?
目の前のフレディは相変わらず、一心不乱に水をすくって飲むを繰り返している。どんどんペースが上がっていた。まるで俺達のことなど眼中にないかのように、バッシャバッシャと。恐る恐る、その円らな瞳を覗き込んでみる。
――明らかに充血している。というか、完全に目がイッてる。
「ゆ、夕凪! お前、水の中に何いれたんだ!」
「え? だからおクスリだけど…」
「そ、それはどんな薬なんだ? 誰からもらったんだ?」
逸る心を抑えながら夕凪を怖がらせないよう、声音を努めて優しくして訊く。
「霙お姉ちゃんがね、ドラ焼きのお使いに行って来たらくれたの! すっごくいい匂いがする紙でね、嗅ぐだけでいい気分になれるお薬が染み込ませてあるって」
「み、霙姉さん……」
何時も飄々として終末思想でドラ焼きを頬張っている姉さんの顔が、瞬時にして脳裏に浮かぶ。ミステリアスな雰囲気とは裏腹に意外に茶目っ気があったり、かと思ったら裏山で遭難したりと、とにかく姉妹一よく解らない人だ。姉さんなら、怪しげな薬を持っていたとしてもまったく違和感がなかった。
とにかく、ヤバイ薬があの水に溶け出していることは間違いない。紙を水にいれるなんてことは子供の発想だからしょうがないとして、今は水を取り上げることの方が先決だ。
「ほらフレディ、ストップ! 止めるんだ!」
バケツの淵に手をかけ、そのまま引きずるように立ち上がる――前に、何かものすごい力が俺の胴を打ちつける。
一瞬、視界をよぎったピンク色の鞭。間違いない、今のは、フレディの鼻!
そして次の瞬間には、打たれた衝撃で弾き飛ばされ、小屋の外で無様に転がる俺の姿があった。
※
「いつつつつ……」
「大丈夫ですか、王子様……?」
「これぐらい、何てこと……あだっ」
強がってはみるものの、春風姉さんが包帯を一巻きするたびに、身体には鈍い痛みが走った。包帯の下では、酷いアザが出来ている。フレディに殴打された部分だ。まさか象に殴り飛ばされる日がこようとは、この家にくるまで……いや、この家に来てからも思ってもみなかった。
しかし状況は、俺など完全に放置したまま、深刻な事態に突入していた。テレビから流れてくる音声が、現在の状況をありのまま克明に伝えてくれる。
『――脱走した象は猛スピードで市内の道路を逃走しており――』
窓の外へ目をやると、崩壊したフレディの小屋が主を失って寂しく佇んでいる。俺を気絶させ、奪い返した水を全て飲み干したフレディは、さらに狂気の度合いを上げて暴れ出すと、小屋をブチ壊して脱走したらしい。今テレビに映されているのは、暴走して街中を縦横に駆け巡る姿を、マスコミのヘリが中継している映像だ。
「虹ちゃん、可哀相に……」
包帯を手にした春風姉さんの表情がさらに暗澹たるものになる。小屋の中にいた夕凪と虹子に幸い怪我はなかったが、二人ともかなりショックが大きいようで、さっきから蛍にしがみ付いてずっと泣き喚いている。特に虹子は小さい上に飼い主。殆ど半狂乱状態である。
『ああっ、象が停めてあった車をまた弾き飛ばしました!』
アナウンサーの驚いた声がテレビから流れてくる。見てられない、と麗が悲痛な叫びを上げる。さっきから行く手を塞ぐ障害物は、全てあの強靭な身体で弾き飛ばしていた。普段の温厚なフレディからは考えられない力技だ。幸い、早い内に避難勧告が街に出され怪我人はまだ出ていないようだが、このまま事態が収束に向かうようにも思えない。
勿論警察は既に動いている。だが、あのクスリの影響なのか通常の麻酔薬が効かないらしく、他の捕獲方法も悉く空振りに終わり、射殺許可が下る寸前とこちらには伝わってきていた。トゥルー家のコネクションを使って海晴姉さんが何とか取り成してくれているが、麻酔銃に代えて猟銃が持ち出されるのは時間の問題だった。
「駄目だ、このままじゃ……」
フレディだってこの家族の一員だ。このまま見殺しになんて出来る筈がない。激情を抑えられず、握り締めた拳がぎりと音を立てる。だが自分に何が出来る? 相手は人間ではない、象だ。まだ成熟していないとはいえそのパワーは人間を軽く凌駕する。考えなしにフレディの前に立っても、また軽くいなされるだけだ。
「でも、何とかしないと……」
焦燥から漏れる俺の声に、驚くほど冷静に、はっきりと応える声があった。
「なら、行きましょう兄さん」
「吹雪……?」
十二女の、吹雪だった。椅子から降り、凛と立ち俺と向かい合うその姿は、とても夕凪の一つ下とは思えないほど毅然としている。
「行くって、どうやって――いや、ただ行ったってどうにも――」
「麗姉は、ヘリの操縦が可能だったと記憶しています」
「……そりゃ、出来るけど……」
「ヘ、ヘリの操縦!?」
驚く俺をそのままに、次は春風姉さんへと目を向ける吹雪。
「春風姉は、麻酔の取り扱いが得意だったと記憶しています」
「……うん、任せて」
しっかりと頷く春風姉さん。何時もの優しい笑顔からはとても連想できない、強固な意志がその顔には宿っている。俺には解らない。だが確かに、何かをやる気なのだ。
「なら行きましょう。サポート全般は私が請け負います」
「ちょっと待って吹雪ちゃん。今ヘリを出すのは危険すぎるわ。この天気じゃ……」
窓の外へ目をやる麗。外は昼間と打って変わり、強い唸りを孕んだ風が吹き、脅すようにガラスを叩いている。確かにこれはヘリを飛ばせる天候ではない。多分。
「確かに無謀かもしれません。ですが多少のリスクを犯さなければフレディは救えません。そしてそれには、麗姉の力が必要なのです」
お願いします、と頭を下げる吹雪。何時もと表情は変わらないが、春風さんと同じく、言葉の内には力強い芯が感じられた。
「俺からも頼む、麗」
「アナタ……」
「このまま黙って指を咥えている訳にはいかない。俺で出来ることなら何だってする。だから、このとおりだ頼む!」
男である俺から、これ程強く頼まれるとは思っていなかったのだろう。面食らっている様子の麗だったが、やがて俺から顔を逸らすと、
「べ、別にアナタに頼まれてやるんじゃないんだから。私はただ、妹の泣き顔をこれ以上見たくないだけよ」
艶のある長い髪を翻し、玄関へと歩き出す。
「麗……ありがとう」
「お礼は無事にフレディを捕まえてからよ。ほら、ぼさっとしてないで付いて来て! ヘリを格納庫から出さなきゃいけないんだから!」
「ああ、よく解んないけど任せておけ!」
男である自分を蛇蝎の如く嫌い、アナタ以外の二人称は『痴漢・変態』。この家に来て随分だった今もそんな状態が続きあまり話す機会もなかったが、ここで初めて、少しだけでも心が通えたような気がして、俺は急いで麗の後を追いかけた。
※
「Paaooooooooooooooooooooooooon!」
夜の静寂を裂くフレディの雄叫びと、その上空で舞うヘリのプロペラの旋回音。二つの爆音が皮膚をビリビリと震わせ、自らが非日常の中にいることを教えてくれる。
それぞれの役割を担いトゥルーハウスから飛び立った俺達は、ついに街の中心部を爆走するターゲットを眼下に捕らえていた。
「いいぞ! フレディに追いついた!」
とうに避難の完了した無人の街を見下ろしながら、目まぐるしい急展開と麗の操舵技術の見事さに、俺は思わず歓喜の声を上げる。ヘリの操縦なんて聞いたときは何の冗談かと思ったが、まさか本当に操縦が出来たとは。
「昔、電車を運転したいって言ったときに、これで我慢しなさいって言われたヘリの操縦が、まさかこんなところで役に立つとはね……」
物凄い説明臭い台詞が操縦席から聞こえてきたが、深くは考えまい。きっと、こういうことは金持ちの家ではよくあることなんだろう。あのぶっ飛んだママンなら、それくらいしかねないし。
「さすが俺の妹だ麗。帰ったら埼京線に一緒に乗りに行こう!」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわよこの痴漢! それより降下するからしっかり掴まってなさい!」
パイロットの麗に俺、それに春風さんと吹雪を乗せたヘリは、獲物を見定めたカワセミの如く、一気にフレディに向かって急降下を始める。と言っても本当に突っ込むような真似はしない。林立する建造物にプロペラが引っかからず、なおかつ麻酔銃の射程ギリギリまで機体を地上へ寄せる。
車で接近することが出来れば一番楽なのだが、交通規制が敷かれている今、警察の妨害を受けないでフレディに接近するにはヘリを使うのが最善の方法だ――というのが吹雪の弁である。成程、理は適っている。一番の問題はヘリの調達だったのだが、それがどうして我がトゥルーハウスにあったかは最早問うまい。むしろ春風さんが調合し、ライフル型麻酔銃の本体に装填している麻酔の方がよっぽど気になる。
「あの、何で春風さんはそんなに麻酔にお詳しいんですか……?」
恐る恐る、訊いてみる。
「それは勿論、何時か私の王子様を手篭めにするために――もう、そんな解り切ったこと訊かないで下さい♪」
顔を赤らめて両手で覆う姉さん。まぁ、何時か食われるんだろうなーとは思っていたが、それもそう遠い日ではないらしい。一人の女性にここまで愛されるのは、多分幸せなことなんだろう。起きたら全部終わってたとか、そういうのは勘弁して欲しいが。
「そろそろ麻酔銃の射程圏内に入ります。麗姉、目標と速度合わせ、高度を保ってください」
「解ったわ。後は頼むわよ変態! 姉様!」
「任せろ!」
「行きますよ、王子様!」
ヘリのドアが勢い良くスライドし、二つのライフルの銃身が、内から槍の如く突き出される。
「風の影響を算出しますので、こちらの指示に従って狙いを付けて下さい」
「了解だ」
「お願いね、吹雪ちゃん」
俺と春風さん、二人の狙う先は暴走を続けるフレディ。悪意さえ感じる暴風が、二人の髪をかき乱し、鼓膜を唸らせ集中力をさらって行こうとするが、スコープ越しに捕らえたフレディの姿だけは、絶対に掴んで離さない。
春風さんによれば、この麻酔銃には対フレディを念頭においた特製ブレンドの麻酔弾が仕込まれているらしい。何でも、一滴だけで俺を三日三晩眠らせておくほどの強い効能があるとか。どうして俺が例なのかは解りたくないが、これならいける!
「待ってろよ虹子! すぐにお兄ちゃんがフレディを連れ戻してやるからな!」
吹雪の指示通りに狙いを定め、迷うことなくトリガーを一気に引く。二つの空気の爆ぜる音。ライフルのストック越しに軽い反動が走り、間髪入れず、吹雪の声が耳に届く。
「着弾を確認しました」
「よし!」
「やりましたね王子様!」
思わず作ったガッツポーズの勢いそのままに、春風さんとハイタッチ。きゅん♪ と何時もの擬音が春風さんから鳴り、こちらの状況を見守っていた麗も安堵の一息をつく。
「まったく、いくらエイプリルフールだからって、冗談は変態の存在だけにして欲しいわ」
「そう言うなよ麗。帰ったら、お礼にNゲージ買ってやるからさ」
「人を子ども扱いしないでよ! まぁ、くれるって言うなら貰ってあげるけど……」
「もう、麗ちゃんは素直じゃないんだから」
ハハハと何時もの暖かな笑いが機内に満ちる。一時はどうなるかと思ったが、これで一件落着という訳だ。
「じゃあ、早速帰って虹子に報告――」
「待ってください」
歓喜に湧いていた俺達を遮り、吹雪の焦燥を帯びた声が割ってはいる。冷静沈着な吹雪にしては珍しく、表情はかなり険しい。
「どうした吹雪。麻酔弾は、ちゃんとフレディに当たったんだろ?」
「それは間違いありません。ですが、まったく効果が現れてこないのです」
「そんな馬鹿な!」
自分で否定したものの、確かに眼下をひた走るフレディの勢いが鈍る様子はまったくなく、寧ろ狂気の度合いを増していっているようにも思える。
「Paaaaaaaaaaaaooooooooooooooooooooooooooonn!!」
また一つ雄叫びが夜空を穿ち、天に捧げられる生贄の如く、長い鼻に持ち上げられた車が天へと舞い、地に落ちて乾いた音を立てる。
「春風姉の用意した麻酔は超強力かつ超即効性です。それが効かないということは、麻酔弾自体がフレディの皮膚に阻まれている可能性があります。薬の影響で皮膚の硬度が増しているのか……正直なところ、計算外です」
吹雪の白い肌が、血の気を失って青白く映る。直感的に俺は悟る。事態は、本当に致命的な所に向かおうとしている――それを振り払うように、俺は新たな案を打ち出す。
「そ、それじゃあ麻酔を直接飲ますとか!」
だが吹雪は、ただ首を横に振るだけ。
「今の正気を失ったフレディには無理でしょう。……後は、皮膚の柔らかい、足の付け根部分の内側に、麻酔を打ち込むしか方法はありません」
「そんなの、空からじゃ無理よ!」
フレディと併走することが出来ればヘリから狙い撃つことも可能だが、ヘリに象と同じ高さで飛ぶような真似が出来る筈がない。
「なら、一度降りて車を探して――」
『そんなんじゃ間に合わないわ下僕』
今度俺の提案を遮ったのは吹雪ではなく、通信機から聞こえてきたノイズ混じりの別の声。家に連絡要員として待機してもらっていた氷柱だ。
「氷柱姉様、何かあったの?」
『……警察から連絡がきたわ。上層部は射殺を許可。すぐに狙撃部隊が展開する筈よ。その前にフレディを止めないと……』
「そんな……海晴姉の説得も、限界だったという訳ですか……」
うなだれる吹雪。射殺というショッキングな言葉に春風さんも顔色を失い、その場に力なく座り込んでしまう。
警察の部隊が何処に展開するかは知らないが、フレディの進路上に網を張るのは間違いないだろう。それもそう遠くない場所に。とてもじゃないが、降下して使える車を探してる時間なんてない!
ここまでなのか。俺は家族を救えず、指を咥えて遥か上空から、フレディが殺されるのを、ただ黙って見ているしかないのか……?
「――いや、まだだ。まだ終わってない!」
そんなことを、認める訳にはいかない。まだ俺には、やれることがある!
「王子様……?」
「麗。フレディの向かう方に先回りして、俺を下ろしてくれ」
「ちょっと、アナタまさか……!」
「ああそうだ。正面からフレディにこの麻酔薬をプレゼントしてやる」
象の足の付け根、それも内側の皮膚に弾をお見舞いするには、正面きって向かい合う他ない。
『本気なの下僕!?』
「確かに一番現実的な方法ですが、危険過ぎます。兄さんの安全は保障出来ません」
吹雪の言う通り、猛スピードで向かってくるフレディに対して正確な射撃を行えるかは限りなく怪しい。連射の効かないこの銃では、実質ワンチャンスになるだろう。仮に麻酔が上手く命中したとしても、離脱するタイミングを失すればあの巨体に体当たりされて、華々しく明日の朝刊一面を飾ることになる。だが――、
「そうですよ! せめて春風も一緒に――」
「駄目です。俺一人でやります。こういう危険なことは、長男である俺の仕事です。俺がやらなきゃいけないんです……!」
そう、俺はこの家の長男なのだ。皆を守る義務が、そして危険に立ち向かう義務がある。
「兄さん……」
「変態……」
『下僕……』
様々な呼び方で俺を愛してくれている妹達。長男として、その妹達を悲しませるようなことを許すわけには断じていかない!
「王子様……」
きゅん――と春風さんから何時もの音が寂しげに鳴ったが、それを了承したものと無理矢理に解釈して俺は指示を出す。
「頼む麗! 時間がない! 急いでくれ!」
「で、でも……」
『私からもお願いするわ。私達の下僕を、信じましょう』
「氷柱姉様まで――もう、解ったわよ! 行くわよこの痴漢!」
やけっぱちに押されたレバーに合わせて、フレディを見下ろしていたヘリが、一気に速度を上げてピンク色の巨体を追い越していく。そしてフレディの進む先に少し開けた場所を見つけて高度を落とし、ホバリング状態になると降下用の梯子を地面へと垂らす。
「それじゃあ、行ってくる」
ライフルを背中に担ぎ、やはり止めようとする家族の声を、風とプロペラのせいで聞こえなかった――そう自分に言い訳し、素早く梯子を降りて久し振りの地面に足をつける。洒落たこの街では必ず見る石畳の、硬い感触が懐かしい。
「もういいぞ!」
頭上のヘリに向けて、大きく手を振って合図する。それを受けてヘリが高度を上げ――と思ったら、機内から人影が身を乗り出し、何事かと首を捻る間もなくそのまま飛び降り――、
「うぉわっ!」
殆ど反射的に空から落ちてきた人影を抱きとめ、しかし受け止めきれず、俺と飛び降りてきた誰かは地面を転がる。無様に地面に大の字になって、何だと思いながら目を開けると、
「えへへ……きちゃいました」
そこには申し訳なさそうに、でも悪戯っぽく舌を出して照れている、春風さんの顔。
「随分、無茶をしましたね。俺が受け止めてなかったら大変でしたよ」
「それは、王子様が抱きとめてくれるって、信じてましたから」
微塵も揺らぎのないその言葉に、思わず溜め息が零れる。まったく、この人には敵わない。愛とはかくも強く、そして眩しいものなのか。夜空を仰げばヘリは既に高度を上げて、遥か上空から俺達を見下ろしていた。頭に春風が吹いている人は俺に任せる。麗のそんな呆れた声が聞こえてきそうだった。
「こうなったら、最後まで付き合ってもらいますよ春風さん」
「勿論です。でも私は、別の方のお付き合いでも構いませんよ?」
うふふ、とライフルを片手に微笑む春風さんにはやっぱり年上だからなのか、こんな状況なのに妙な余裕があって、
「無人の街でデートってのも悪くないですね。何処も貸切だ」
つられるように、俺も冗談が言えるほどの落ち着きを取り戻していた。
俺達の降り立った場所は、繁華街のド真ん中だった。通りに面して洒落た店が軒を連ね、夜の帳が下りたばかりのこの時間帯、何時もなら多くの人が行き交う筈のこの場所も、避難勧告が出されたために今は人っ子一人いない。いるのは俺と春風さんと、そしてフレディだけだ。
「なら、王子様にはお城の形をしたホテルまでエスコートして欲しいです」
「……あぁ、ヨーロッパとかにあるみたいですね、古いお城を改装した立派なホテルが。貸し切って結婚式挙げたりとかも出来るとか」
「まぁ、王子様がそこまで考えてくれてるなんて、春風嬉しいです!」
しまった。話を最悪の方へ逸らしてしまった。慌てて訂正しようとするが、既にきゅんきゅんモードに突入した春風さんは妄想の中だ。
「式は勿論、六月ですよね。昔からジューンブライドに憧れてたんです! フランスのお城で式を挙げたら、マリーちゃんもきっと喜びますよ♪ それとドレスは、この前に街で見付けたのがとっても可愛くて――」
「……お楽しみのところ悪いんですが、今回は二人でする、初めての共同作業ってことで勘弁してくれませんか?」
「本当は、ライフルじゃなくてナイフでの共同作業がいいんですけど……」
残念そうに呟きながら、しかし笑顔で春風さんは言う。
「でも、今日の王子様はとーってもかっこいいので、良しとします」
「別に、そんなつもりじゃ……」
「私は、そんなアナタが大好きですよ?」
……まったく、本当にこの人には敵わない。
「……休憩はここまでです。そろそろ本番いきますよ」
「はい、お任せください」
フレディが向かってくる方へ、二人はしっかりと向き合う。まだ距離があるのか、フレディの姿は見えない。携えたライフルに弾がきちんと装填されていることを確かめると、何時か本で見た狙撃の体勢を真似て、片膝をついてその場に座り、構えてスコープを覗き込んだ。猿真似以外の何物でもなかったが、意外とその体勢はしっくり感じられた。春風さんも、俺の横で同じ様な体勢を取る。さぁ来い。俺が狙い撃ってやる。俺がお前を助けてやる……!
また緊張してきたのか、心臓がどくん、どくんと高鳴りを始める。今すぐにでもトリガーを引いてしまいそうな人差し指を押しとどめながら、照準機越しの虚空を睨みつける。何時の間にか風は凪いでいた。フレディの最早悲痛にさえ聞こえる叫び声と、だんだん大きくなってくる地面の揺れが、運命の瞬間が迫っていることを教えてくれる。もう少しだ。もう少しで、あのピンク色が視界に入る!
「来た!」
けたたましい疾駆の音を伴って、緩いカーブをピンク色の巨躯が一気に滑り込み、視界を制圧する。
「Paaaaaaaaaaaaaoooooooooooooooooooooonnn!!」
周りを散らす、圧倒的な存在感を持つその体色は見間違える筈もない、フレディだ。やっと主役のご登場。思わず声を発して喉が異常に渇いているのが解った俺は、一つ唾を飲み込む。
だけど、まだ遠い。ギリギリまで引き付けて撃たないと、いくら皮膚の柔らかい部分に弾が当たったとしてもまた弾かれる恐れがある。そうなっては元も子もない。我慢だ。逸る気持ちと弾けそうなトリガーの人差し指に、さらに力を込めて押し留める。
そうこうしている内にも、フレディは俺達との距離をどんどんと縮めてくる。鞭のような鼻を振り上げながら吼え猛り、銃を構えた俺達など路傍の石にしか見えないのか、まるで意に介することなく真っ直ぐ突っ込んでくる。愚直、しかしそれ故に勢いは凄まじく、回避し損なえばそれこそ蟻の如くあっけなく蹴散らされてしまうだろう。
フレディを殺させる訳にもいかないが、俺達とて死ぬつもりはない。どちらが欠けても家族が悲しむ。だから、三人で皆の待っている家に帰るんだ。俺と、春風さんと、フレディで。アイツもきっと、そう願ってる筈だから。
重厚な足音を伴いながら、もうフレディはすぐそこまで迫っていた。この距離ならいける。まばたきも忘れ、俺の眼は最後の狙いを定める。激しくなる呼吸と心音を手のブレに合わせ、向こうの速度を考慮に入れ、足の付け根から少しずらして照準を据えた。後は、目標がスコープの十字に差し掛かったところで――、
「当たれぇ!」「当たって!」
裂帛の気合と共に二人のトリガーが引かれ、皆の想いを乗せた麻酔弾がフレディへ放たれた。きっと当たる。だから俺はすぐにライフルを捨てると、春風さんを抱え、畳んだ足をバネに真横へと跳んだ。そのすぐ傍をフレディのでかい図体が、大気を巻き込み、ライフルのひしゃげた音を残して猛スピードで通り過ぎていく。
寸でのところで突進をかわした俺はすぐに体勢を立て直し、走り去ったフレディの後姿へと、望みを込めて目をやった。だが、さっきとスピードは変わらず、その後姿はどんどんと遠ざかっていく。
駄目、だったのか。視界が一気に絶望の黒に侵食されていく。ここを突破されては、後は警察の手に全てを委ねるしかなかった。
「ごめん……フレディ……みんな……」
無情にも遠ざかっていくフレディに俺は黙って頭を下げ、そして悔しさをぶつけるように地面に拳を叩きつけた。
ズドン――。
大きな音が、鳴り響く。ぶつけた拳にはあまりにも不相応な、大きな音が。
「王子様! あれ!」
弾む春風さんの声。垂れていた頭を慌てて持ち上げると、そこには、地面に倒れこんだピンク色の巨体の姿。信じられず眼を擦ってもう一度目を凝らして見るが、やっぱりその姿は間違いようがない。さっきまであれほど暴れていたフレディが沈黙し、地面に横たわって大きな寝息を立てていた。起き上がる気配はない。俺達の麻酔が、やっと届いたのだ。
「やった、のか……」
俺は、やり遂げたのだ。それが解った瞬間、栓を外したかのように急に体の力が抜けていき、俺の意識は黒い海の底へと静かに沈んでいった。
※
庭から妹達のはしゃぐ声が聞こえる、うららかな春の午後。暖かな日差しに身を浸しながら、俺は屋根の上で優雅に日向ぼっこと洒落込んでいた。風も穏やかで心地よく、妹達の遊ぶ声と、それに混じって象の鳴き声がする以外は至って静かな、平和な午後である。
「本当に、平和って尊いものですよね……」
持ち込んだドラ焼きを頬張りながら、俺は横にいる霙姉さんに話しかける。
「ああ、まったくそうだな弟よ……だから、哀れな姉に一つ、そのドラ焼きを恵んではくれないか?」
「俺が海晴姉さんに怒られるから駄目です」
取り付く島も与えず、俺は残りのドラ焼きを口に放り込む。磔にされた霙姉さんは暫く物欲しそうな目でこっちを見ていたが、やがて諦めると、ガクリとうなだれた。
フレディ脱走事件から数日が経ち、破壊された街はすっかり元通りになっていた。大変なコネと相当の額の金が動員されたらしいが、俺の知るところではないし、詮索する必要もないだろう。何はともあれ、事件は無事収束を迎え、かけがえのないトゥルーな日常が戻ってきたことを今は喜びたい。
今回の事件を引き起こした元凶として、海晴姉さんの命によって磔の刑に服している霙姉さんだけは、もう少し非日常の中にいてもらわなければならないが。
「違うんだ……出来心だったんだ……夕凪に渡したら、ちょっと面白いことになるかなって……魔が差しただけなんだ……」
「逆さ磔じゃないだけマシと思ってくださいよ。いやぁ、それにしてもいい天気だ……」
聞こえない筈の俺の言葉に同意するように、ぱおーんとフレディが一つ、蒼天に向かって高く鳴いた。
そういえば、麗にNゲージを買う約束をしていたことを思い出す。電車の模型というものも結構いい値段がするもので、俺の懐では少々心もとない。しょうがないから、霙姉さんの小遣いから引かせてもらうことにしよう。霙姉さんに怒り心頭な今の海晴姉さんなら、二つ返事で了承してくれるに違いない。
「弟よ、何か酷いことを考えてないか?」
「そんなことないですよ。俺は何時だって姉さんのことが大好きです」
姉さんはまだ何か言いたそうだったが、俺は聞こえなかったことにして目を閉じると、そのまま心地よい、暖かな眠りの中へと落ちていった。
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