《白い恋人》
自分の街に雪が積もったのは、随分と久し振りだった。
淡く煌く街灯が、銀を纏って踊るその姿を優しく照らし出す。一つ歩く度にブーツの下で積雪の軋む音がした。ぎし、ぎし。踏みしめる感覚が何とはなしに心地いい。不思議と寒くはなかった。気分が高まっているのか。子供じゃあるまいし。そう思いながらも自然と歩みが緩くなって、一歩遅れて歩いていた彼女と肩が並んだ。白く染まった吐息が、ほの暗い空に上がっていく。
何だか、夢みたい。
透き通る白い顔に笑みを浮かべる彼女に、そうだなと相槌を打つ。うん、と返してくれた声が弾んだ。いつもは夜に静かに沈んでいく筈の街並みが、今は雪化粧をして、微かな光を反射しながらおぼろげに闇の中で浮かび上がっている。知らなかった街の顔を見ながら、僕達は歩いている。二人でだ。
コートのポケットから手を出して、遊んでいた彼女の指に自分のそれを絡めた。細い指に芯まで染み込んだ冷たさが、僕の温もった手を侵食する。その感覚が痛く、堪らなく愛しい。彼女と繋がっているのだ。握った手に、ぎゅっと力を込める。離したくない。愛しているから。どうしようもなく愛しているから。愛してさえいれば、僕は幸せだから。彼女を愛してさえいれば、それで。
腕を取って引き寄せ、彼女を強く抱きしめた。離れぬように。細く雪のように冷たい体が、僕の熱に、融けていく。胸板に沈んだ彼女が、上目遣いになって屈託なく微笑んでくれた。一層、力がこもる。彼女が愛してさえくれていれば、それだけで幸せだった。
※
気が付くと白い部屋の中にいた。
真っ白い、光が満ちた眩しい部屋。他に色はない。僕の身体も見えない。身体は光に浸食されていた。身体にある無数の穴から光が入って、僕を白に染め、侵していた。何も見えない。感覚はある。自分がここにいるのだという、霞んでしまうような感覚はあった。でも何も見えなかった。全てが蠢く白光のヴェールに覆われていて、何も掴めなかった。
音だけが聞こえた。ひぃ、ひぃ、と。必死に空気を掻き集めようとする、汚く浅ましい音。酷く、耳障りだった。煩く、五月蝿い。だから、音の源を潰した。見えない腕に必死に力を込めて。
そこで初めて、世界を彩る色が、音を立てて僕の前に現れる。
紅。真っ赤な、熱を持った色の花が、咲いた。大輪の花が、咲いた。僕は声を上げて歓喜した。白以外の色がここにある。白に蹂躙されない色がある。世界に色があることがこんなに素晴らしいことだったとは、今の今まで思いもしなかった。日常がどれほど喜びを孕んだ風景に包まれていたか、僕はこの瞬間に始めてそれを知った。でも、すぐにその紅も食い潰されていく。鉄が酸の中で溶かされていくように、嬲られながら光に犯されていく。僕は焦った。また光に包まれるのは嫌だった。狼狽に悲鳴が零れる。嫌だ。色が欲しい。世界に彩りを。
枯れ木に花を咲かせましょう。そんな言葉が僕の頭をよぎる。ここは死んでしまった世界。終焉の地。墓場。どれでもいい。生きるには花が必要だった。だから、腕に力を込める。終わってしまった世界にもう一度命を灯すために。かき消されそうな腕の感覚を必死に手繰り寄せながら、ただ色が欲しくて、僕は必死に花を咲かせ続ける。
知ってしまったのだ。僕の世界に必要なのは、この色だということを。この花だということを。手放すことなんて、出来るわけがなかった。例え、花が僕を必要としていなくても。
白い部屋を出る事が出来たのは、それから暫く後のことだった。部屋を出ると、そこには僕が帰りたいと願い続けていた世界があった。様々な色で描かれた世界。太陽、月、花。空に、そして闇さえも。随分と苦しい思いをしたような気がする。それでも僕はまた、この色に溢れた世界に戻ってくることが出来た。帰ってきた僕を、彼女も快く迎えてくれた。僕はここにいて、ここで彼女と一緒にいていいのだ。
今ではこの地面を覆う、くすんだ灰色のコンクリートさえ掛け替えのない世界の要素の一つに思える。森羅万象、この世に生まれし全てが世界を形作っているのだ。僕は知った。だからこそ、ピースは一つも欠けてはいけないし、間違った色を持っていてもいけないのだ。全てはあるべき姿のままに、存在しなければならない。
※
カン、カンと錆びた階段を鳴らしながら、アパートの二階に上がる。少し廊下を歩けば、そこが僕の部屋だった。カギを開けてノブを回し、無言で降り続ける雪に別れを告げて中に入る。ブーツを手早く脱いで雪を払ってコートをかけると、外とは打って変わった、所帯染みた光景が目に入ってきて、思わず苦笑いが漏れた。
狭いアパートの一室。乱雑に置かれた家具に散らかった本や文房具。整理整頓も兼ねて、洒落たインテリアでも置けばいいのにと以前から彼女に言われているのだが、あいにく苦学生の身分ではそうはいかない。彼女もいい加減諦めたのか、最近は部屋について何も言わなくなった。住めば都、とも言う。確かに狭く男臭い部屋ではあったが、今も彼女は、気に入っていたぬいぐるみを抱いて、こたつに足を入れてくつろいでいる。寒さで強張っていた顔が、知らずの内に緩んだ。住めば都。なら彼女がいれば……豪邸、だろうか? 残念ながら、あまり語呂は良くない。。
転がっていたリモコンを拾い上げて、テレビを点けた。映し出されたのは、バレンタインデーの特集。そういえばもうすぐだ。でも。五秒も置かず、チャンネルを変えた。こんな番組よりニュースが見たい。
作り置きしておいたスープに火をかけ、保温しておいたご飯をお茶碗に盛る。後は適当にあったお惣菜を暖めて、夕飯の出来上がりだ。それをこたつのテーブルへと持っていって、いただきますと手を合わせ、他愛のないことを話す内に、ごちそう様で食事は終わる。その後は特に言葉もなく、ただ二人で同じ時間を過ごし、気付けば蛍光灯は消え、僕は彼女の肢体を抱きしめていた。
カーテンの隙間から注ぐ月影に濡れた彼女の身体は、相変わらず華奢で凍てついている。まるで氷の彫像。包む諸手の力を入れ過ぎれば、あっけなく折れて砕けて、もう二度と戻らない。こうしている時間も何もかもが、結晶に還って霧のように消えていってしまう。僕が抱擁しているのは危うい均衡。でもその冷たさが、冷酷さが、彼女が腕の中にいることを教えてくれる。同じ温度では駄目だ。また光の中で見失ってしまっては、とても困るから。
名前を呼んで、唇を合わせた。絡み合う舌と舌。二人しかいない空間を震わせる濡れた音が、熱を持った思考をさらに鈍らせる。重ねていた顔を離すと、淫靡な光を纏った粘膜の橋が互いを繋いだ。声が聞きたい。彼女の甘い、脳髄を溶かしてしまうような官能的な声が。柔らかな稜線を描く乳房に舌を這わせようとして、一瞬、視界がぐらりと揺れる。蜃気楼が僅かに、二人の間をよぎった。これも、二人の熱の違いのせい。刹那の幻影を振り払って、僕は愛撫を続けようとする。
――不意に、部屋が闇の中へ落ちた。
まるで電灯のスイッチを切ったように。視界はなくなり、僕の身体からすっと熱が消えていく。手を動かした。でも、何も掴めない。いや、本当に掴めていないのかも解らない。ただ冷たい、凍った感覚があるだけ。何も見えない。こんなに寒くても身体はある筈。でもそれも、どんどんと飲み込まれていく。深い闇の底へ。漆をブチ撒けた夜の空の、遥か底へ。
叫んだ。愛しい人の名前を咆哮に乗せて呼んだ。でも解らない。僕も凍ってしまった。だから解らない。彼女が何処にいるのか解らない。手探りで探した。でももう指先は掻き消えていて、必死にそれを呼び戻そうとしても、もう深淵に呑まれた両方の手は還ってこない。
やがて腕がなくなり、彼女を抱けなくなる。やがて脚がなくなり、彼女と歩けなくなる。やがて口がなくなり、彼女を呼べなくなる。やがて心がなくなり、彼女を想えなくなる。
嫌だ。闇は嫌だ。闇を払って欲しい。黒は怖い。黒を何処かへやって欲しい。僕の愛した彼女を還して欲しい。もう二度と離したくない。彼女が居なければ僕はいられない。
彼女がいるから僕はここにいられる。二人は一緒にいなくちゃならない。二人はあるべき姿で、二人でいなければならない。でないと、この世界から零れ落ちてしまう。
白を願った。あの蠢動する光の山を。心から願った。あれほど恐れていた白を願った。僕を破滅に追いやった白を求めた。白い絶望を、欲した。
そして世界は僕に応える。暗転した世界が、光転した。
世界は再び白に食い破られていく。黒のヴェールは何処からか無数に沸き出てきた蛆によって陵辱され、瞬く間に駆逐されていった。すぐに彷徨っていた身体も元に戻ってくる。はは。笑って、足元で溢れ返る蛆どもを無造作に口の中に放り込んだ。一噛みするだけで、冷たい液が乾いた口内を潤してくれる。中で残ったカスを勢いよく吐き捨てた。さっきまで怯えていた自分が馬鹿みたいだ。それにしても、白が蛆とは趣味が悪い。なら黒はゴキブリか?
口の端が歪んだ。僕は悠然と歩き出す。一歩を出す度に、素足の下で群れた蛆の潰れる音がした。ぶちゅ、ぶちゅ。踏みしめる感覚が何とはなしに心地いい。不思議と怖くはなかった。気分が高まっているのか。子供じゃあるまいし。それでも、またここに帰って来たということが僕を酷く愉快な気持ちにさせた。そうだ。何度でもやり直せばいいんだ。僕と彼女との世界だ。何回だってこの手で作り直してみせる。だから、まずは愛しい眠り姫を早く目覚めさせにいかないと。
僕は駆ける。待ちきれない。この歓喜の瞬間。思い出していた。あの迸る悦楽に己が身が千切れ飛ぶ瞬間。悪い夢に惑わされていた彼女を自分の手で取り戻した、最高の一刹那を。
弾けそうな感情を抑えながら、僕は無邪気な笑顔になって走って、そして見つけた。蛆の絨毯の上で、静かに横たわる彼女を。
言葉はいらない。ただ、僕はこの手を、今はしっかりと解る自分の両腕を、熱を持った彼女に向かって伸ばすだけでよかった。
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