《序章》
そびえる山の深き夜に、月を拒む闇の間隙を縫って、松明の光がちらちらと踊る。彼方より見れば、その様子はまるで人魂の行列。そう思わせるほど静かに、そしてどんな気配も逃さぬように一歩一歩、兵達は感覚を研ぎ澄ませながら進んでいく。
峻険な山肌に、無秩序に生えた草木。それに昼でも日が差さないため、ぬかるんだ地面が鎧で重い兵士達の足を阻む。だがそれ以上に、何時襲われるかという不安が兵達の進軍を鈍らせていた。日が落ちてからの行軍だったが、今の今まで鳥一匹見ていない。この山には何もいないのか。何故だと思う前に答えが出ていて、それが余計に不安を煽った。
この山は普通の山ではない。魔が巣食う山なのだ。
恐怖のために誰もが自然と無口になっていたが、一人が沈黙に耐えかね口を開く。
「後ろの奴等、信用して大丈夫なんじゃろな?」
最早何も見えない暗闇の向こうへ目をやる。その先、山のふもとに広がる平原には、朝廷があちこちから集めた腕利きの呪術者達が待機している筈だった。
「さぁ、どうだかな……」
薙刀を携えた男が、前に顔を向けたまま気の抜けた声で返す。確かに衛門の役人は陰陽師やら密教僧などをかき集めてきたと言っていた。そして呪法の力で敵を弱らせ、向こうが打って来た所を叩くというのが、上が寄越してきた作戦だった。だが本当にそれでこの先にいる脅威に勝てるのか、男には甚だ疑問だった。
今回の討伐の目的。逆賊とされ遥か昔に辺境へ追放された、土蜘蛛の頭首に。
わざわざ夜に動き始めたことに関しても、兵士達は納得がいっていなかった。衛門は術の力が向上するからだと説明したが、妖魔の本領も陽が落ちてからだと聞く。ならば視界が悪い分、こちらが不利なのではないか? 要するに上の奴等は、自分達のような歩兵を蜘蛛を釣るための餌ぐらいにしか思っていないのだ。
冗談じゃない。こんなところで野垂れ死んでたまるものかよ……。
心の中で愚痴をこぼしながら、しかし引き返す訳にもいかず渋々と進んでいると、不意に、先頭を歩いていた指揮官の脚が止まった。何事かと思って部下達も足を止めるが、指揮官はただ立ち尽くすだけで何の下知もよこしてこない。
変だ。兵達の間にざわめきが起こる。そしてその時にはもう、一番後ろにいた兵士の首が宙を舞っていた。
「あ―――!」
悲鳴を上げ切る前に、死体に気付いた兵士のその口は血反吐に塞がれる。ずるり、と胸から抜かれる腕。鎧ごと大穴を開けられた体は、紅に濡れた人型の前にあっけなく崩れ落ちた。先頭でも、指揮官が力なく自らの血溜まりの中に倒れる。死体が三つ、あっという間に出来た。
兵士達の目が異形に集まり、そして戦慄に凍る。視線の坩堝の中、まるで最初から紛れ込んでいたようにソレはいた。地に着くほど長く伸びた髪に、他の者をゆうに超える背丈と、黒くうねる様に隆起する肉体。らんと輝く紅い眼。そして太刀を植えつけたかの如く、鋭く長く伸びた爪。それは見紛うことなき人外のあやかし、鬼の姿だった。
止まった時間に喝を入れるかのように、鬼は吼える。それだけで忘我していた兵士達の精神は崩壊し、武器を捨てて我先にと逃げていく。歯向かう者は誰もいなかった。皆、命が惜しいのだ。
「精々逃げろ!わっぱ同然の雑兵どもが!」
鬼の哄笑が闇を裂き、それに応えるように烏が一斉に飛び立って、不吉な羽音と共に夜空をさらに黒く彩った。完全な勝利に鬼は酔う。後方の呪術師部隊を仲間達と共に強襲、先に壊滅させ、援護を受けられなくなった前方の歩兵部隊を叩く。もう少し苦戦するかと思っていたが、終わってみれば、鬼は手傷一つ負っていなかった。
帰ろう。自らの場所へ。
血糊を無造作に払い、鬼は踵を返す。だがその前に、一人の男が太刀を両手に立ち塞がった。命が惜しい者は既にもういない。今目の前にいるのは、命知らずの馬鹿だ。そしてその馬鹿を鬼はよく知り、また青年もよく鬼を知っていた。
「貴様ッ!よくも皆を……っ!」
まだ若い青年。長い髪を振り乱し、憤怒の形相を浮かべている。既に壊滅させておいた後詰めから急いで駆けつけたためだろう、息が荒い。だが構えに隙はなく、鬼の知っている通りの強さと、全てを飲み込まんとするほどの殺気が滲み出ていた。
今ならば、それこそ土蜘蛛の頭首さえこの男は殺すだろう。だが、自分を殺すにはまだ足りない。
「折角見逃してやったのに……なお、死合うか?」
離れた青年に向けて鬼が爪を振るう。埋もれてしまうほど小さな風切り音がした一刹那の後、青年の頬が裂け血が滲み、真空の刃に切られた草葉が舞った。だが青年は動じない。ただ、自らが信ずる守護神の真言―――力を得るための呪文―――を唱え、鋭気を研ぎ澄ませている。
ナウマクサマンダ・バサラ・ダンカン。その聖なる言葉によってこの世の理は捻じ曲げられ、神の示す理が全てを凌駕して現れる。魔を打ち破る神、不動明王の真言は、唱えし者に破邪の力を与える。
「貴様だけは、絶対に許さぬ……!」
翼のように広げられた両の太刀。その刀身を包み込むかのように、轟と紅蓮の炎が宿った。まるで青年の怒りに呼応するかのように激しく燃え盛り、大気を灼く。普通ではありえないことだが、真言によりこの世に顕れた不動明王の力がそれを可能にする。唸る炎は周囲を熱で歪めながら、青年の背後に憤怒の形相を浮かべた不動明王の姿を浮かび上がらせた。青年が修し、多くの退魔士にも使われる密教。その中でも特に力を持つとされる不動明王は邪悪なる者全てを、その聖なる炎で焼き尽くすとされている。まさに青年に打って付けの守護神であった。鬼は知っていた。この青年が悪を憎み、悪を討つためだけに存在しているのだということを。そして彼の言う最たる悪とは、自分のような存在なのだということを。
「いいぜ、付き合ってやるよ・・・」
鬼の緩んだ表情が締まり、目も精悍に満ちる。どくんと胸が一つ高く打った。鬼にとって、これは大切なモノを守るための戦い。だがそれ以上に、かつて共に戦った仲間と刃を交えるのは心が踊った。
鬼が爪を振り上げ、駆けた。青年もまた、吼えて地を蹴った。互いが放つ裂帛の気合同士が、夜の大気を痛く振るわせる。辺りに火の手が上がったのは、それからすぐのことだった。
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