《二章》
宿として使わせてもらっている寺に戻ってきた頼将は、夕餉の後、都から持ち込んだカビの匂い漂う書簡に改めて眼を通していた。
都の守護を司る機関、衛門府。その最高職である衛門督が嫡男。それが藤原頼将だった。
彼を一言で表すならば、将来を渇望された期待の若手。まだまだ退魔士としての経験は浅いものの腕は一流。行く行くは父の後を継ぎ、衛門督の座を継ぐであろう彼は普段、都の警護、特に宮中に近い区画を守護する近衛隊の一つを任されている。重要な役職ではある、がそれ故に実戦経験が疎かになりがちではあった。近衛隊にお鉢が回ってくることなど早々あってはならないからだ。
今の役職が不満な訳ではないが、やはり退魔士たるもの、前線で戦うことによって己の力を磨きたい。日頃からそう考えていた頼将にとって、今回の話――偵察部隊編成は願ってもない話だった。偵察とはいえ、行く先は魔物の巣窟。退魔士としての力を如何なく発揮出来るに違いない。
そう考えた頼将はすぐさま偵察部隊へと志願し、それが聞き入れられた結果、今日ここに隊長としているのだった。父に無理をいった手前――父は彼を前線に回すことに良い顔をしなかった――上出来以上に任務をこなさなければ。頼将は目を皿にして熱心に書簡を見る。
薄暗い部屋の中、頼りない、息一つ吹けば消えてしまう灯火に照らされるのは、おどろおどろしい巨大な蜘蛛の絵図。古に現れた土蜘蛛を描いたものらしい。その横には彼ら一族の身体的特徴や、かつて如何に猛威を振るったかが記されている。ここに書かれていることが本当なら何とも恐ろしい話だ。その眼は紅にらんと光り、普段は人の成りをしているが、一度蜘蛛の姿に変化すれば身丈は人家を優に越えたと言う。幾つもの村や集落が潰され、朝廷も数多の犠牲者を出しながら、何とか辺境に追放したらしい。それが今の蜘蛛山ということなのだろう。
だが伝説とは常に尾ひれがつくもの。敵を実際より強大と据え、それを討った自らの力を誇張するためにだ。故に、事実は恐らくここに描かれている程ではあるまい。なら、朝廷に追われて時を経た今の彼らはどうなのだろうか。
力は相当弱まっている筈だ。それが、頼将の友人であり衛門きっての陰陽師、安倍晴明の見立てだった。悠久を越えた彼ら一族の中で、最早その血を色濃く受け継ぐものは数えるほどだろう。焦らなければ確実に土蜘蛛の里は落ちる。だから、決して無理はするな。晴明は頼将の出立をその言葉で見送った。
本当に心配性な奴だ。普段は何を考えているか解らん面をしておるくせに。狐の子と陰で言われる晴明の顔を思い出し小さく笑いながら、頼将はもう一つの書簡を広げる。まだ新しいそれは、酒呑童子と名乗る鬼について書かれたものだった。こちらは伝説ではなく、誇張なき事実がしたためられている。
酒呑童子が出没し始めたのは二年ほど前。破格の身体能力を奮って衛門の追跡を退けつつ、たびたび中央の貴族邸宅を襲っては米や金子の類を奪い、貧しい村々に分け与えている。いわゆる義賊を気取っているのだ。それもここ一月ほどぱたりと止んでいたのだが、まさか此度の戦で目撃されるとは夢にも思っていなかった。何故あの鬼めが土蜘蛛を守るために戦っているのか。これもまた奴の信じる義のためなのか。
どちらにせよ、面倒なことにならねばよいが……。
溜め息と共に頼将は書を閉じると、灯りをさっと吹き消す。思考を緩めれば、障子の向こうから虫の鳴く声が聞こえてきた。夜が何時の間にか深まっている。もう寝よう。明日からが本番だ。相手の戦力が判れば、自ずと考える道も決まってこよう。
敷いてあった蒲団に身体を滑り込ませる。布同士がすれる音が部屋の沈んだ空気を微かに揺らしたが、それに混じって、明らかに異質な音が頼将の耳に入ってきた。慌てて、掛け布団を跳ね飛ばすように起き上がる。空耳ではない。鉄を引っかくような甲高い音。いや、人の悲鳴のようにも聞こえた。
もしや、呼ばれたのか?
頼将は無言で布団を出る。本能が反射的に、立てかけておいた太刀を握らせた。他に妙な音は聞こえないかと耳を澄ませるが、後にはもう静寂しかやって来ない。やはり気のせいだったのか。少し神経質になっているのかもしれない。しかしどうしても気になって、頼将は太刀を握り締めたまま部屋を後にする。
夜の大気で冷えた廊下を軋ませながらそのまま外へ出る。声が聞こえたのは中からではなかった。いるならば、外だ。確信的なものを持ったまま、物音を立てぬよう忍び足で辺りを探索する。月は隠れ、光は置かれた松明のみ。風は凪いでいた。先ほどまで鳴いていた虫の音も、今はもうない。
またあの声がした。近い。携えた太刀の柄に手をかける。同時に、闇を孕んだ茂みの向こうでがさがさと何かが蠢く音がした。あそこだ。あそこから、あの声は私を呼んでいる。だが気配は一つではなかった。
「そこで何をしている!」
門に備え付けられた松明を手に取り、わざと大きな声を出して藪の中に割ってはいる。思わぬ邪魔に狼狽する野太い声がはっきりと聞こえた。いるのは男か? その正体を見極めんと松明を掲げる頼将。そうして暴かれた暗闇は、薄汚れた男二人と、組み敷かれた女童の姿を白日の下に晒した。
もしや呼んでいたのは、この娘か……?
もっと異質なものを想像していただけに、一瞬判断に臆する頼将。だが、衣を無理矢理剥がれ、恐怖に顔を引きつらせる娘を前にすぐに事態を理解すると、抜刀し、男達の眼前に切っ先を突きつける。
「私の寝床の近くでこのような狼藉を働こうとはいい度胸だ。懺悔は地獄でするがいい」
覚悟しろと言わんばかりに刀を振りかぶる――が、背後から、
「お止めください」
聞き覚えのある声がかけられ、頼将を制した。切っ先は男達に向けたまま、振り返る。
「綱殿……」
寝間着の自分とは違い、軽装を身に付けたままの渡辺綱が、何事かと集まってきた部下達を背に凛と立っていた。自分を見る目が昼間より一層厳しい。どういう訳でこの男は止めに入ったのか。頼将もまた鷹の目になって向き合う。
「何か、ご意見でも」
「妖魔を退治しようとしていた勇猛たる者達を、称えこそすれ、処分されるのはいかがなものかと」
「妖魔……?」
言葉の意味が解せず、眉間に皺を寄せる。そんな頼将を嘲るかのように鼻を鳴らすと、綱は娘に一瞥をくれて、吐き捨てるように言う。
「そこの娘。私の見立てでは土蜘蛛の眷属に相違ないかと」
思いがけぬ言葉に、場がざわめく。さっきまで娘を犯そうとしていた男達までもが、情けない悲鳴をあげて距離を取った。この娘が、土蜘蛛だと?
「伝承通りの紅い瞳。土蜘蛛特有の妖気も感じます。頼将殿も、それに導かれてここに参られたのでは?」
「……」
怯えて身体を縮こまらせ、肩で切り揃えた黒髪を震わせる娘に目をやる。たしかに、目尻に涙を溜めたその瞳は、眼に写った松明の灯火よりもなお一層の紅をたたえ、尋常の人間ではないということを表している。言われてみれば、そんなことがさっき読んだ書簡にも書かれていた気がする。微弱すぎて集中しなければ感じられないほどだが、他の妖魔とは違う特有の妖気も確かに存在していた。先ほど感じ取ったのは、妖気が無意識の内に助けを呼んで周りに働きかけたものだったのだろう。
「頼将様」
綱が一歩、前に出る。反射的に頼将の刃が綱へと向いたが、まるで意に介さず、真っ直ぐ娘に向かって歩を進める。
「土蜘蛛は卑劣なる鬼と手を結び、我らが仲間を虐殺した憎き怪物」
着実に迫りつつ静かに抜刀。鞘から解き放たれた白刃が剣呑に揺れながら、討つべき目標をゆらりと見定め――、
「生かしては、おけませぬ」
――必殺の一撃が、奔った。
よせ!
叫びが声になる前に、頼将が咄嗟に出した太刀が、綱の容赦ない剣撃を少女の眼前ぎりぎりの所で受け止める。
ぶつかりあう金属音と少女のかすれた悲鳴が重なる。
「どういうつもりだ!」
激する頼将。だがそれ以上の苛烈さをもって、綱は言葉を返してくる。
「妖魔を屠るは我らが退魔士の役目!斬って捨てるは当然のこと!」
ギリギリと噛みあう刃と刃。落ち着けという上官の言葉を前にしても、綱は一歩も退こうとしない。それどころかその阿修羅の如き面持ちは、このまま頼将ごと娘を叩き斬らんとする鬼気さえ感じさせた。最早、聞く耳も話す舌も持ち合わせてはいない。
確かに少女は妖魔だろう。だがこの程度の力で何が出来るというのか。人間の娘と何ら変わりはない。それを問答無用で斬り捨てるというのなら、それこそ妖魔の所業と変わらぬ事。私は退魔士だ。退魔士の役目は、力なき者を凶手から守ることと、信じるッ!
「ナウマク・サマンダ――」
その思いのまま、頼将は己の守護神の真言を唱える。頼将もまた修する密教において、綱の守護神である不動明王と並ぶ力を持ち、軍神として名高いインドラ――帝釈天の真言は、その呪言を唱える者に魔を討つ雷の力を与える。今この瞬間、全てを砕く電撃の力が舞い降りたのは、彼が握り締めていた太刀だった。
「くッ!」
神の世界より途方もなく溢れてくる力を、自らも知る密法の力を感じ、咄嗟に飛び退いて距離を取る綱。だが遅い。雷の前に人の行動などは牛歩以下。逃れる術など、皆無。
「インドラヤ・ソワカ!」
詠唱の完了と共に破邪の力を秘めた雷が実体化。迸った閃光が防御に入った綱を撃つ。溢れんばかりのまばゆい光が居合わせた者達の目を眩ませ、視界が元に戻った時には、真っ二つに折れた刀と、衝撃を殺しきれず弾き飛ばされ、地に横たわる綱の身体があった。頼将はわざと外したのだ。そして綱も、わざと防御に不動明王の力を使わなかった。そのことをこの場の全員が理解し、そして誰も口を挟もうとはしなかった。
「綱殿」
倒れてもなお、敵意を露にした眼差しを隠そうともしない綱に対し、未だ光を纏う太刀を収めて、頼将は厳かな声で命じる。
「この男達と娘の処分は私が決める。下がられよ。二度とは言わぬ」
「……はっ」
引き剥がすように頼将から視線を外すと、綱はもう何も言わず、寺の中へと戻っていく。その背中を見送ってから、頼将は下郎二人の処刑を部下に命じ、自分は娘を抱きかかえて寺を出ると、人目のつかぬ所へと向かった。
少女の小さい体は震えていたが、頼将は何も声をかけない。偽善。今更そんな言葉が、頼将の心の中に重石となって沈んでいた。
これから土蜘蛛共を抹殺する手筈を整えようという人間が何をたわけたことを。先程の綱の視線がまさにそれを物語っていたように思えて、彼にはもう、少女にかける言葉を見つけることは出来なかった。
今は何も考えまい。頼将に出来るのは何も言わず、少女に金子を分け与え、安全な所まで見送ることだけだった。
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