《神庭〜かむにわ〜》
全てが澄み、清められた透明な朝。まだお日様も顔を覗かせる程しか出ていないこの早い時間に、私の一日は始まります。お庭中に響く、源蔵さんの高らかな目覚まし声に起こされると、まずは朝餉の支度をしなければなりません。人に選ばれた私の大切な役割です。
準備をしていると、お天道様が上るにつられる様に皆も続々と起きてきます。何時も最後に起きてくる雄一さんにおはようを言う頃には、もう最初の、特別な一膳が食べられるのを待っています。これは、とても大切な神様への一膳。お庭の主様に満足していただくために、特に心を込めてお出しします。勿論、他の方のお膳も。
全ての用意が整うと、やっと朝ご飯の時間です。皆が美味しいと言ってくれるこの時は、私にとって至福の瞬間。この日は神様もご満悦の様子で、私も鼻高々でした。
流れる川の音が聞こえてくる静かな昼下がり。思わずたゆたうせせらぎに身を任せたくなりますが、ちゃんと仕事をこなさなければなりません。白い石畳を掃除したり、子守をしたり。私も、他の方達と協力して、野良仕事をこなしています。力仕事は主に私の役割ですが、雑草や害虫さんを食べたりという細かい作業は雄一さんや原さんがして下さるので、あまり大変だとは思いません。豊穣に彩られた秋を思えば、私の苦労なんて些細なものです。
沈む夕日を見送って、そして迎える宵の戸羽口。今日は少し騒ぎがありました。源蔵さんのお姉さんがもう危ないということなので、私が捌くことになったのです。苦しまずに逝きたいという願いを聞き入れて、私はきゅっと首を捻りました。僅かな手応えと共に訪れる、お別れ。こうなるのは仕方がありません。自然の摂理ですもの。あと私に出来るのは、皆の血肉として生かすことだけ。その日の夕餉は、何時もよりお肉の多いものでした。
こんな風にして、一日は暮れていきます。昨日も一昨日もそうでした。明日も明後日もそうでしょう。変わらない日常。もたらされるのは自然の気まぐれだけ。神様のお庭の中で永遠に営まれる輪廻は、とても尊いものです。その中にいることの出来る私は、どれ程幸せなのでしょうか。
「―――きっと、言葉では表せないのでしょうね」
隣で揺れる、紅い水月。その美しさを、人の拙い言の葉が伝えられぬように。日課の禊を行う清水の中で、私は何時もそう思います。
変わらぬ日々は続きますが、定められた秩序もほんのたまには、歪みを見せる時があります。人がやって来たという話を聴いたのは、乾いた風の吹くある晴れた日のことでした。
私は丁度、原さんのお乳を搾っていたのですが、とりあえずそれを置いて、突然の闖入者を出迎えます。
以前、外から来た人がしていたのと同じ様な、奇妙な格好。特に上の服には、得体の知れぬ文字が描かれていて、あまりいい気分はしません。それに布の包みを背負って、手には水が透けて見える竹筒。額には汗を、顔には柔らかな笑顔を浮かべて、その人はお庭へと入ってきます。
私は、すぐに追い返そうとしました。身なりもそうですが、昔に私が会った外から来た人は、よくない人だったからです。でも、少し休ませて欲しいだけということなので、私は許すことにしました。悪戯に感情を煽ることもありません。
休憩している間、私達は少し話をしました。言葉を交わしてみると、存外悪い人のようには思えませんでした。さっきの私は、思い違いをしていたのかもしれません。そんなことを思っていると、その人は休憩を終え、お礼の笑顔を残してお庭を去っていきました。短い間のことでしたが、私も何処か温かな気持ちを感じながら、お乳搾りへと戻りました。
それから何日かして、またあの人がやって来ました。でも、前のようにその人との時間を楽しむことは出来ませんでした。
お庭から長い間出ていない―――私がそう言った途端、その人は急に外の話をし始めたのです。私は黙っていましたが、それでも延々と、その人は忌まわしい話を続けます。その様子に神様も、良い顔をなさりませんでした。いえ、普段とてもお優しい神様のことを思えば、そのお顔は明らかに怒りの色をしていました。
やっぱり、同じなのでしょうか?
私の中で消えかけていた疑念が、また鎌首をもたげようとします。
そして、また何日か経った灰暗い空の日。野良仕事をしていた私の元に、三度あの人は現れました。話す内容は勿論、外のことです。私は鍬で畑を耕しながら、相槌を打ちます。土が散る音に混ざって聞こえるあの人の声。恐れている言葉が聞こえないように、掻き消えてくれるように、と心の中で願いながら、何時もより強く、わざと大きな音を立てて鍬の刃を地面に噛ませます。
でも、そんなことをしても無駄でした。結局声は聞こえて、恐ろしい表情と共に、恐れていた言葉は私に投げかけられました。
「一緒に、外へ行きませんか?」
本当に恐ろしい表情でした。だってあの人、笑っていたんですよ?微笑んで、まるで外に行くことが素晴らしいことかのように、にこにこと、にこにこと。
ざくりざくり。
私は鍬を振るいます。もう何も躊躇うことは残っていません。やっぱり同じだったんです。前に外から来た人と同じ。同じ様に、私を外へ連れ出そうとした。
ざくりざくり。
神様が私を慰めてくれます。気を落とすことはないと。でもこれで解っただろう?外の連中は、皆お前をここから連れ出そうとする。
「はい、神様のおっしゃる通りでした」
ざくり。
脚を潰してしまえば、後は楽なものでした。汚い花を咲かせた頭をその場に残して、私は体を引きずりながら調理場に向かいます。早く調理してしまわないと、傷んでしまいますからね。
よし、と気合を入れてとりあえず解体してみましたが、出てきたのはやはり、あまり美味しそうなお肉ではありませんでした。まな板の上に乗る筋の多い赤身は、心の腐敗が体にまで浸透していたのでしょう、バラした直後なのに張りが無く、黒くくたびれています。
どうしたら、美味しくなるのでしょうか?
以前、同じ食材を使って失敗したことが思い出され、私が途方にくれていると、源蔵さんのお孫さんたちが喧騒と共にやって来ました。危ないから近付かないように注意したのですが、悪戯盛りの子供達が聞く筈も無く、横に退けていた内臓の山の中から腸を引っ張り出すと、口にくわえて持って行ってしまいました。
ずるずると土埃を上げながら引きずられていく、長く伸びた腸。その姿が大きなミミズさんに見えて、可笑しくなった私は思わず吹き出してしまいました。こんなことを言ったら、ミミズさんに怒られてしまいますね。でも本当に、可笑しな光景だったんです。
その後はというと、さっきの事で何かが吹っ切れてくれたのか、私の腕は順調に進んでくれました。出来た料理もなかなかのもので、前回よりもずっと、神様からいい評価をいただけんですよ?次はきっと、もっと美味しく出来る筈です。この日の夕餉は、私にとって思わぬ収穫でした。
「今日も一日、お疲れ様でした」
こうして今日も終わりを迎え、私は労いの言葉とともに、水で我が身を清めます。あの人の穢れは、これで祓われたでしょう。置いたままだった頭も、さっき子供達が蹴鞠代わりに遊んでいましたし、思い残すこともない筈です。汚れを落とされたあの人は、これから皆の中で生きていくのですから。
跳ぶ飛沫に打たれて、波立つ水面。そこに浮かぶ月は、今日も紅く冴えて、夜の黒を照らしています。
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