序章




「はぁ――はぁっ」

 走る。ただひたすらに前を目指して。

 灼熱を孕んだ風を切りながら、紅く染まる木々の合間をひたすらに駆け、逃げる。

 肺は焼けるように熱く、上げる脚は水の中にいるかのように重い。限界を超えた体はあちこちで悲鳴を上げている。後ろに目をやると、相棒のレナも厳しい表情を浮かべながら走っている。男の俺でも限界なのだ。女のレナはもっと厳しいだろう。その細い足の速度は、じりじりと落ち始めていた。

「追え! 一兵たりとも逃がすな!」

 背後で飛ぶ怒号。それに追い立てられるように響く馬蹄の音。振り返ると、剣を片手に、敵はすぐそこまで迫ってきていた。

「アニキ、追いつかれるよ!」

 焦燥感を孕んだレナの声。所詮は人の足。足場の悪さを利用しても、馬の脚に追いつかれるのは時間の問題だ。

 くそ……っ!

 心の中で舌打ちしながら、残り少なくなったナイフに手を伸ばし、振り向きざまに投じる。

 タン――と無機質な音に、ドサリと重い音が続く。背の異常を感じた馬が、前脚を上げていなないた。足を止めることなく背後を一瞥して敵を射止めたことを確認すると、レナはこんな状況にも関わらず笑顔を浮かべる。

 だがそれも束の間の安堵。並び立つ木の間隙から不意に現れた甲冑の騎士が、ランスの矛先を向けながら突っ込んでくる。あの重装甲が相手では、投げナイフなど容易く弾かれてしまう。

「こっちだ!」

 レナの腕を引いて、茂みの中へと強引に体を滑り込ませる。しなる枝が露出した肌を掻き、紅い線と痛みを残す。苛立ちを積もらせながら走り抜けた先では、まだ火の手は届いていなかったが、道は先程よりも細く、険しい。

 敵は何処まで入り込んでいるんだ……?

 戦場であった森に火が放たれてから随分と時間が経っている。夜を迎えようとしている森に闇はなく、全てが灼熱の朱に照らされていた。

 じきにそれは、全てを灰燼へと還す。

 俺とレナが傭兵として属する中央国軍は、敵対する北国軍の執拗な追撃を受けていた。元々は中央国軍が優勢だったのだが、侵入してきた北国軍を自国領内から完全に排除しようとしたところを、北国の作戦――国境を跨る広大な森を焼き払うという大胆な策――によって形成を一気に逆転されたのだ。

 風向きが悪かったこともあり、中央国軍は炎から逃れるために撤退を余儀なくされたが、北国はさらにそれを追撃し始めた。一年前も同じく中央国に侵攻し、退けられたのを余程根に持っていたのか。焼けた森に退路を断たれるのも厭わずに、北の兵士達は突撃してくる。それは敵ながら、北の蛮国と呼ばれるに相応しい働きぶりだった。

 そして今、俺達は何とかその追撃を逃れ、中央国軍の本隊が駐留する近くまで戻ってきていた。この先の渓流に掛かる吊り橋。そこを渡りきれば、とりあえずは大丈夫だろう。

「もう少しだ、頑張れ」

 並走するレナを励ます。まだ幼さを残すその体には、もう殆ど力は残っていないだろう。だがそれでもレナは明るい笑顔で、うん、と大きく頷いた。俺自身もその笑顔に元気付けられ、知らずの内に足を速める。

 やがて聞こえ始めた渓流の響き。地上での大火事など知らぬかのように、谷底の流れは冷気を吐き出している。覗き込んでみると、どうやら二日前の大雨が原因で増水しているようだった。落ちれば命はあるまい。

「アニキ、あっちだ! 橋があるよ!」

 レナが声を上げる。その指差す先には古びた吊り橋。確かもっと丈夫な橋があった筈だが、贅沢を言っている場合ではない。

 追っ手を警戒しながら、その吊り橋へと駆け寄る。

「お前から先に渡れ」
「え? でも――」
「いいから。さっさと渡れ」

 有無を言わせずレナを先に行かせ、俺はその背を守る様に、後ずさりしながら橋を渡り始める。

 古い吊り橋は、足を踏み出すたびににギシギシと軋んで悲鳴を上げる。足場の木は痛んで脆く、いつ足が抜けるか判らない。下の光景を見てしまえば、この宙に浮いた地面はあまりにも頼りなかった。先を行くレナは泣き言さえ言わなかったが、それでも慎重に、一歩一歩踏みしめるように渡って行く。

 突如、怒号が響いたのは、俺が半分を渡り終えた時だった。

「いたぞぉぉぉぉぉぉっ!」

 茂みが激しくゆれ、藪の中から二つ、赤銅色に照らされる兜が現れた。仲間を呼ぶ大声を上げつつ、弓に矢をつがえる兵士達。その矢尻の狙いは、俺の先を行くレナ。

 ヒュン――!

 灼ける空気を裂きながら放たれる二本の矢。俺は素早く抜剣すると、一刀の元に両方の矢を弾き飛ばす。さらにそのままの勢いで剣を投擲し、続けてナイフも投げ放った。

「あ――」

 短い声を上げて倒れたのは、ナイフを受けた弓兵。眉間にナイフが深々と刺さっている。もう一人は投じられた剣の刃を受け、喉元をバッサリと裂かれていた。ピクピクと陸に上げられた魚の様に痙攣し、立ち上がる様子はない。

「やったか……」

 安堵の息をつく。手持ちの武器はなくなってしまったが、もう必要はあるまい。このまま渡りきってしまおう。

 そう思いレナの待つ方を振り向き――悲痛な声で叫ぶ、彼女の姿が眼に入った。

 直後、灼けるような痛みが体を走る。

「ぐ――あ」

 搾り出すような呻き声を上げながら、その場に倒れこむ。手は自然と、矢に穿たれた右太股を庇うように覆っていた。

「――き、さまぁッ!」

 突っ伏した状態のまま憎悪を込めて声を上げる。だが隠れていた三人目の弓兵は俺のことまるで意に介すことなく、今度はレナを射らんと弓を構えている。

「早く逃げろ! 何してるんだっ!」

 レナに向かって叫ぶ。だが、俺が射られたショックで四肢に力が入らなくなったのか、地面に座り込んだままレナは動けそうになかった。

「くそっ!」

 ひょう、と風切り音。そして今度は肩に激痛。

 放たれた矢は、レナを庇おうと飛び起きた俺の肩を射抜き、そしてその勢いで、俺は再び橋の上に突っ伏した。

 拙い橋が、大きく揺れる。

「ぐ……っ!」

 痛みを堪えながら顔を上げると、矢が切れたのか、抜剣して走り寄って来る弓兵の姿が見えた。このままトドメをさそうという魂胆らしい。

「アニキ!」
「来るな!」

 こちらに来ようとするレナを一喝し、制す。これまで聞いたことのない強い怒気を孕んだ声に、レナはびくっと体を震わせる。

 その様子に、兵士が奇声を上げて笑う。

「仲良くしろよ馬鹿同士が! すぐに去年の借りを返してやるからよ!」

 勝利を確信した兵士は、恍惚とした目つきで橋を渡り始める。軍が敗退すれば、北の連中は今までそうしてきたように、北部の村々で略奪を働くだろう。そんな奴を一人でも生かしておく訳にはいかなかった。

 少しでも、この世の中から不幸をなくす。それが俺の生きる意味だ。

「レナ! ダガーを寄こせ!」
「え……?」
「いいから早く!」

 レナはよく解っていない様子だったが、俺に近付いてくる敵を見て、急いで自分の短剣を投げて寄こす。

 じゃらん。

 受け取った手の中で、鞘につけた装飾が気持のいい音を立てた。

「いい子だ」

 笑って見せ、もう振り返らない。

「死にさらせ!」

 兵士が雄叫びを上げながら、剣を大上段へと振りかぶる。そして剣は振り下ろされ、眼下で這いつくばる敵を叩っ切る―――その前に、俺はダガーを抜き放ち、吊り縄を切り裂いた。

 一つの綻びで橋は崩れ、世界は一つ、大きく揺れて反転する。

「え?」

 聞こえる兵士の間抜けな声。それを残して俺達は地上から姿を消す。あとはただ、風を切ってひたすら奈落に落ちて行くだけだ。

 迎えるは、増水で荒れ狂う渓流。俺は地獄への片道切符を自ら切ったのだ。もう彼女のいる世界には戻れない。

 ごめん、と謝る。

 レナの悲鳴が聞こえたような気がした。


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