一章〜青年と少女〜




 ぴた……。

 闇に沈んでいた意識が、耳元の水音を聞く。布のような感触が額から離れ、少し遅れて雫が顔を打った。冷たい、と思う。あれだけ、凍える中にいたというのに。

 ゆっくりと意識が目覚め始め、俺の目が、自然と開かれる。

「ん……」

 眩しさに一度目を閉じ、明るさに馴れてから徐々にまた目を開けていく。まず視界に入ってきたのは、白い天井。僅かにすす汚れたその白は、暖炉で火でも焚いているのか、優しいオレンジに照らされている。

「目が、醒めましたか?」

 呆、とその天井を眺めていると、聞き知らぬ優しい声がかけられ、女の顔が俺を覗き込んでくる。大きな蒼い瞳に、流れるような金の長髪が印象的に映る。

「体は大丈夫ですか?」

 女――いや、そう言うにはまだ若い少女の顔に、見覚えはなかった。だが向こうは、長年の友人を見るかのように穏やかな笑みを浮かべている。

「……ああ。お陰さまでな」

 今ひとつ働かない頭で、俺は頷く。よく状況が掴めない。頭に靄(もや)がかかったかのように、何も思い出せない――いや、何を思い出せばよいかさえ解らない。頭の中がひどく混乱している。

 だがそんな俺をよそに、少女は両手を胸の前で合わせ、安堵の息をつく。

「よかった。心配したんですよ」
「……そうか、すまない。迷惑をかけたな」

 とりあえず礼を言って、ベッドから上半身だけでも起き上がろうとする。だが、中々体が思うように動いてくれない。そんな俺を少女は手助けしながら、言葉を続ける。

「たくさんケガして倒れてたんですよ? 近くの河原で見つけたときは、本当にびっくりしたんですから」
「怪我……?」

 そう言われて、改めて体を動かしてみる。今は上半身を起こすのもやっとの状態だし節々も痛むが、無理さえしなければ特に問題は無い。外傷も特に見当たらなかった。休養さえ取れば、すぐにでも元のように動けるようになるだろう。

 ――いや、俺は――。

 そこで、思い出す。

 戦場からの逃走。追撃。吊り橋の上で射られ、そして、濁流の中へ落ちていったこと。思考にかかっていた霧が一気に晴れていく。

 俺は、助かったのか? あの状況下で……?

 自問し、改めて隣にいる少女を見る。

「……?」

 まじまじと見られて、何でしょうか? といった風に小首を傾げる少女。

 彼女が纏っているのは、神職の者が着る法衣。その材質や刺繍された柄を見る限り、かなり質の高い物に思える。そして、胸の所で光る純銀のクロス。これもかなり良い銀を使っている。

 となるとこの少女、かなり高位の聖職者ということになる。

 こんな年端もいかぬ少女が高位聖職者というのはとても信じられないが、よもやこんな女が、地獄で死者を苦しめているとは思えない。そして己の事を顧みれば、天国に行くということもありえない。どうやらここは、死後の世界という訳ではなさそうだ。

 次に、射られた箇所を見てみる。

 そこだけは痛みが大分と残っていたが、傷口は殆ど塞がっており、僅かな痕が残っているのみだ。

 俺は、まだ小首を傾げている少女に尋ねる。

「アンタが俺を助けてくれたんだよな? 何月の何日だ?」
「え? えーと、確か……」

 おずおずと俺を見付けた日を答え、それから二日しか経っていないことを少女は付け加える。計算すると、どうやら意識を失ってから三日が経過していたらしい。

 たった三日で、ここまで回復したのか……?

 俺はあの時、射られた他にも多くの傷を負っていた。なのにそれらの殆どが、傷跡さえ残さず完治している。はっきり言って、これは異常だった。

「きっと、薬が効いたんですよ」

 俺が釈然としない顔で自分の体を見詰めていると、少女は少し照れたように笑みを浮かべて答える。

「ほんのちょっとだけ、お薬の調合には自信があるんです」

 それにですね。少女は言葉を紡ぐ。

「きっと、神様が奇跡を起こして下さったんです」
「奇跡……?」
「はい」

 訊き返した俺の言葉に、大真面目で頷く少女。

「教会で苦しんでいる人がいたので、神様があなたを救ってくれたんですよ。間違いありません」

 そう言って、そこそこある胸を張る少女。何故彼女が誇らし気なのかはよく解らなかったが、そこには敢えて言及しないことにした。

 しかし俺は、そんな妙なものに命を救われたのか……?

 彼女の言うとは何の根拠もないことだが、この状況ではある意味一番説得力があった。少女がどれだけ薬学に精通していたとしても、やっぱりこの治り方は尋常ではないし、俺自身に特別な回復力がある訳でもない。神を一度唾棄した俺としてはかなり複雑な気分だったが、取り合えずそれで納得しておくことにした。

 今一番重要なのは、これからのことだ。

「それで、ここは教会なのか?」

 暖炉の上に取り付けられた簡素な十字架を見て、少女に尋ねる。

「はい。ここは村の教会です。建てられて二百年にもなる由緒ある教会なんですよ」

 わざわざ歴史まで付け加えて説明してくれる、法衣姿の少女。

 となると、俺がいるこの部屋は彼女の私室だろうか。それにしては内装が、殺風景というか無骨だ。女の部屋なら花の一輪くらい生けてあってもいいだろうに。それともこれが、教会の教えか?

 そんなことを考えていると、不意に部屋の扉が開かれた。

 軋んだ音と共に入ってきたのは、少女と同じく法衣姿――服装から見て格は劣るようだが――の老人だ。老人は起き上がっている俺を見ると、線のように細い眼(まなこ)を開いて、ほぅと声を上げた。

 白くなった髪に、同じく白い伸びた髭。窪んだ双眸にしわの深い顔。そして曲がった腰。老いというイメージをそのまま絵にしたような老人だ。

「神父様。まだお休みになられていなかったのですか?」

 神父……? じゃあ、この教会の責任者はこのじいさんなのか?

「少し、気になっての。それより若いの、目が醒めたか」

 手を後ろで組んでゆっくりとベッドに歩み寄ってくる老人。

「……アンタは?」
「ほっほっほっ。そういえば自己紹介がまだじゃったな。まぁお前さんがずっと眠っておったのだから仕方のないことじゃが……」

コホン、と咳払いを一つして場を改める老人。

「わしはゴードンという。この教会で神父をやっておる」
「俺はレオンだ。……ここの責任者は、コイツだと思っていたが」

 聖職の少女を指して言う俺に、ほっほっほっと笑う神父。

「この娘は神学校時代の教え子じゃよ。主席で卒業し、教皇様にその敬虔さを認められてからも、わしなどを慕ってよく会いに来てくれおる」
「い、いえ。私などまだまだ未熟で――神父様には多くを学ばせてもらっています」
「そう謙遜することはない。お主の信仰心は国中の誰もが認めるところじゃ。現にお主は、立派に神の教えを広めているではないか」
「いいいい、いえ! 滅相もございません。私など神の御許にはまだまだ遠く――」

 顔を真っ赤にして、ゴードン神父の言葉を否定する少女。神学校を主席で出たというのなら相当なものだと思うが、本人にそういった気はあまりないらしい。

 それにしても、このままじゃ延々と続きそうだな……。

「――で、アンタの名前は?」

 俺の言葉に、ハッと我に帰る少女。そしてバツの悪そうな、ごまかしの笑みを浮かべて改めて俺と向かい合う。

「も、申し遅れました。私は、エリスといいます。宣教師として各地を旅しているんです」
「宣教師……?」

 お前みたいなのが? と言いかけて、慌ててその言葉を押さえ込む。さすがに失礼だ。

「色々な所を回って、微力ながら、教えを広める手伝いをさせていただいています」

 言う本人に自覚は無いのだろうが、その姿もまた何処か誇らしげだ。自分に自信はないが、自分のしていることには誇りと自信を持っているのだろう。事実、宣教師と言うのは大変な仕事だ。さっき言いかけた言葉は、そういう意味も含んでいた。華奢な体であちこちを回るというのは、並大抵のことではない。

 そう思いつつも、だが、二人を見る俺の目は、知らずの内に冷たいものになってしまう。

 理解できない。そこまで神に尽くして、一体何が得れるというのか? まったくご苦労なことだ。

「それで、レオン殿。体調の方は如何かな?」
「体調? ああ、それなら――」

 大丈夫だ。

 そう言いかけて嫌な感じの咳が出る。改めて意識してみると、頭も痛いし、体も熱っぽい。風邪の症状と似ていた。まだ体は疲れているのだろう。少し、眠りたかった。

「―――いや、まだ少し体がだるい。出来ればあと一日、ここで休ませてくれると助かる」
「そうしなされ。わしは一向に構わんよ」

 こちらの心中を察してくれたか、ゴードン神父とエリスは席を立つ。

「何かあったら、これを鳴らして呼んでください。すぐに来ますから」

 言って、枕元にベルを置く。試しに鳴らしてみると、チリンと、綺麗で澄んだ音が部屋に響いた。

「それでは、お休みなさい」

 律儀に一礼して部屋を後にするエリス。ゴードン神父もそれに続き、部屋は元の静けさを取り戻す。暫く呆とドアを眺めていた俺だったが、やがて目を逸らすと、居住まいを直して瞼を閉じた。

 己の世界が闇に閉ざされる。聞こえるのは、パチパチという薪の爆ぜる音。いるのはただ独り、俺だけ。

 眠気と共に、どっと疲れが襲ってきた。起きたばっかりだというのに、少し話しすぎたようだ。考えなければならないことがたくさんあるような気がしたが、今は思考もまとまりそうにない。

 今日のところは、おとなしく寝よう。考えるのは、明日からでも遅くはない。

 そう思ってしまえば、眠りに落ちるのは早かった。


 ―――そして不意に、温かい感じに包まれた。


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