二章〜迫る影〜



 静かな虫の音が、涼しい風に乗って聴こえて来る。窓から僅かに入ってくる光はほんのり朱に染まり、宵闇の帳が辺りを包み始めている。エリスが部屋を訪ねてきたのは、そんな夕刻の頃だった。

「……何してるんですか?」

 荷物を纏めている俺を、不思議そうに見て言う。

「見ての通り、荷造りだ。――っと丁度良かった。訊きたいことがあったんだ。ここから一番近い町を教えて欲しい」
「え? 一番近い町ですか?」
「加えて、人がたくさん集まって、情報収集が出来るような所ならなおいい」
「人が集まる、一番大きな町……」

 う〜んと腕を組んで考え込み、暫くした後、ある一つの町名を挙げる。

「多分、そこが一番近いと思います」
「そうか……」

 地図を広げ、その町の位置を確認する。彼女の言う通り、あまりここから離れている訳ではなさそうだ。

「……あの、レオンさん?」
「何だ?」
「もしかして……何処かへ行くんですか?」
「ああ。明朝ここを発つ。お前達には世話になったな。礼を言う」

 頭を下げる俺に対してエリスは、そうじゃなくて、と声を上げる。

「早すぎます。レオンさんはまだ――」
「もう怪我人じゃないぞ。こっちが首を捻るほど、体の調子はいいんだからな。それに、やることもある」
「……また、危ない事をしに行くんですか?」

 一つトーンの下がったエリスの声に、どういうことだ、と訊き返す。

「レオンさん……冒険者とか傭兵とか、そんな感じの人だから……ケガも普通じゃなかったし……」

 長いまつ毛を伏せて呟くエリス。

 心配……してくれているのだろう。

 冒険者なんて名乗れば聞こえはいいかもしれない。だが実際は、金さえ積めば傭兵から諜報、暗殺までなんでもやってのける奴等の総称。汚い便利屋だ。俺は人を不幸にするような依頼には手を染めない主義だが、それでもいつ野垂れ死ぬかなんて、判ったもんじゃない。

「確かに俺は、そういったことを生業にしている。でもな、俺の今やるべき事はそういうことじゃない」
「え……?」

 違うんですか? と顔を上げるエリス。

「はぐれた仲間を探しに行く。多分大丈夫とは思うけど、俺のことを探している筈だから、早く会ってやりたいんだ」

 まだまだガキだから、俺がいないと駄目なんだよ。笑いながらそう付け加える。

 この理由ならば、引き留める事はあるまい。そう思いながらエリスを見る。

「……解りました」

 こくん、と大きく頷くエリス。

 ほら、解ってくれた。生き別れの男女、感動の再会。これを阻もうとする奴は血の通った人間じゃない。

「レオンさん。私、お手伝いしますね!」

 意気揚々と言い放ち、ぐっと握り拳を作る。その曇りなき眼は無償の善意に燃え、人助けの精神が轟々と唸りを上げていた。

「そうか、ありがとう―――って違う! 駄目だ駄目だ!」

 純粋な親切心に危うく呑まれそうになった俺は、慌てて声を上げる。

「えぇっ!? どうしてなんですか!?」

 不満そうに声をあげるエリス。

「アホかお前。冒険者ってやつは恨みを買いやすいし、商売敵から狙われることも多い。お前みたいなのが下手に巻き添え喰らってもこっちが困るんだよ。だから絶対に、駄目だ」

 ずぃ、と顔を寄せて、なるべく恐がらせるように言ってやる。

 だがこれは、脅しでもなんでもない。最近の話をすると、賞金首であった盗賊団の頭を捕まえた時、その子分に夜襲を受けたことがあった。あの時はレナが一緒だったからよかったものを、エリスと一緒にいてもし襲われでもしたら、庇いながら戦うなど不可能だ。最悪、人質にとられるかもしれない。それは彼女も本意ではないだろう。

「そうですか……」

 しょんぼりとうつむくエリス。親切で言ってくれているのが解るだけに、その姿に良心の呵責を感じてしまう。だがこれも、彼女を巻き込みたくないが故。ここは鋼の意志を持って、毅然とした態度をとらなければ。

「解りました」

 顔を上げるエリス。そこには諦めの、少し寂しい笑みが浮かんでいる。どうやら、今度こそ解ってくれたようだった。

「じゃあせめて、町まで道案内をしますね! 私も、明日にはここを発つつもりだったんで」

 ……解っちゃいねぇ。

 俺はうなだれて頭を抱える。どうやら、うつむいていたのは妥協案を考えていただけだったようだ。

 だがその提案を、俺は無下には出来なかった。

「……お前、この辺りには詳しいのか?」
「はいっ。伊達に宣教師やってませんよ!」

 えっへん、とばかりに胸を張る。

「……むぅ」
「この辺りの道はややこしいから。地理に乏しいと迷っちゃいますよ? その様子だとレオンさん、この辺りには詳しくないんでしょ?」

 弱みと見たか、ここぞとばかりに攻め込んでくるエリス。

 彼女の言う通り、俺はこの辺りの地理に疎い。それでも流石に迷うことはないだろうが、時間が惜しい今、彼女の提案は非常に魅力的なものだった。

「今ならもれなく、近道教えちゃいますよ」

 鋼の意思が、ボロボロと音を立てて崩れ去っていく。エリスは輝かんばかりの上目遣いで、牙城の崩れ去っていく様を見ている。

 頼むから、そんな目で俺を見ないでくれ……っ!

 はぁ、と思わず溜息が出る。そしてついに、俺は折れた。

「……解ったよ」
「ホントですか?!」

瞳だけでなく、エリスの顔全体がぱぁっと輝く。

「ただし、町まで案内してもらうだけだ。それ以上、余計な助力はいらないからな」
「はいっ、解りました!」

 必要以上に大きく頷き、ビシッ、と敬礼まできめる。本当に解っているのか。かなり不安だ。

「それじゃあ、張り切って用意してきますね♪」

 差し込む西日をすり抜けて、トテトテと慌しく部屋を後にするエリス。その小さな背中を、俺は呆然と見送る。

 何故、知り合ったばかりの俺にここまで手を貸そうとするのか。改めて考えてみれば、甚だ疑問だった。エリスが俺にどれだけ協力しようが、彼女が得をすることは微塵もないのだ。なのに、何故。

 ―――いや。多分、理由なんてないんだろうな……。

 これも、教会の教えが成せる業か。はたまた、彼女本来の性質か。どちらにしても、今までも色々な事に首を突っ込んできたに違いない。彼女にしてみれば、俺のことにしても、たくさんある内の一つに過ぎないのだろう。

「まったく、殊勝なことだな……」

 皮肉を呟き、だが何処か暖かい心持で、俺も荷造りを再開する。



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