《V》
ワォ―――ン……。
獣の遠吠えが、ガラスの窓越しに冷めた空気を震わせる。夜の町はますますその眠りを深め、闇の中へ沈んでいく。窓の外へちらりと目をやるが、相変わらずこれといった変化はない。剣の柄を握りなおすと、ガチャリと無機質な音が響く。切っ先が月光をはね、鋭利に煌く。
あれから数時間が経過していたが、今のところ特に動きはない。
俺が見守る先で、エリスは静かな寝息を立てている。寝顔こそ安らかだが、疲れていたのか、眠りは深いように見える。宣教師というのは体力のいる仕事だから疲れには馴れていると思うが、今日の疲労は格別だっただろう。
……頼むから、来ないでくれよ。
見えない相手に向かって祈る。このまま何も起きなければいい。朝にここを発って、別の街に着いたら、そこでエリスと別れれば、俺はそれでいい。その後ならいくらでも相手になってやる。
だが、その願いはあっけなく砕かれる。
パリンッ!
「――!!」
突然の破砕音に静寂が乱れる。ガラス窓を穿ち飛び込んできたのは、何処から放たれたのか、熱気を纏った火矢だった。それは続けざまに、二本、三本、四本と打ち込まれ、大きな一つの炎になろうとする。
「エリス、起きろ!」
怒鳴られ、弾かれるように飛び起きるエリス。
「ど、どうしたんですか――火!? 早く消さないとっ」
「バカ、動くな!」
消火しようと壁に近寄ったエリスを、抱きかかえるように押し倒す。そして一刹那遅れて、さっきまでエリスの頭があった所に、今度は普通の矢が撃ち込まれる。
これが狙いか……!
火矢は獲物をおびき寄せるための灯火、つまり誘蛾灯という訳だ。この部屋にいたのがエリス一人なら、確実に殺されていただろう。
「逃げるぞ。このままじゃ本当に殺される」
「で、でも、早く消さないと火事に――」
「死にたいのか!? 行くぞ!」
エリスの手を引っ張って、無理やり廊下へと連れ出す。同時に、宿全体、外にも聞こえるように大声で叫ぶ。
「起きろぉぉぉぉぉぉっ! 火事だぞぉぉぉぉっ!」
次々と飛び起きてくる宿泊客達。近隣の住民達も騒ぎで起きてくる筈だった。それを見越して階段を駆け下り、敢えて裏口は避け、表口から出る。外には既に、多くの野次馬が集まっていた。
「こっちだ!」
はぐれぬようにしっかりと手を握りながら、敵の目を欺くために野次馬の中に紛れ込み、それから裏道へと抜ける。そこに怪しい影はない。この道に待ち伏せは潜んでいないようだった。
「これからどうするんですかっ?」
息を切らしながら訊いてくるエリス。
「ここを出て、山に入って様子を見る。町の中にいるのは下策だ!」
奴等は手段を選ばない。町中で火矢を撃ち込んでくるような奴らだ。俺の命を奪うためなら、如何なる手段も講じてくるだろう。そのために、これ以上関係の無い人々を巻き込むわけにはいかなかった。
そこまでして、俺の命が欲しいかよ……ッ!
道は把握していた。入り組んだ隘路だが、出口は解っている。そこを目指してひたすら走るだけだ。闇に響く、二つの靴音と弾む吐息。それが五つに増えたのは、あともう少しで出口という所だった。
追いつかれたか!
剣を抜くと同時に、影が前方に躍り出る。僅かに差し込んでくる月光が、その手元のナイフを照らし出す。
「退け!」
一喝するが、相手は動かず。構えた刃が答えだ。ほぼ同時に駆け出し、すれ違いざまに剣を振るう。俺の手に伝わったのは、肉と骨を断つ確かな手ごたえ。男の刃は俺には届かず、抜け殻となった体と共に地面を滑った。
だが安堵している暇はない。俺が離れた隙に、二人目、そして三人目の男がエリスに向かって襲い掛かって来る。
「ちぃっ!」
すぐさまエリスの前に立ち、一人は投げナイフで仕留め、もう一人の斬撃を寸での所で受け止める。
キィンッ!
闇夜に啼く、甲高い金属音。がっちりと噛み合った互いの白刃が、ギリギリと唸りを上げた。
「何者だ!」
詰問するが、答えは返ってこない。目深にかぶったローブのフードからは表情は窺えず、痩せこけた頬と、色の薄い唇が見えるだけである。その姿は、今まで俺を狙ってきた奴等とは明らかに異なっていた。
「そんなに俺の命が欲しいか!?」
それはただ、怒りが漏れただけの言葉だった。だが今度は僅かに、男の反応を誘った。生まれる刹那の隙。俺はその間隙を縫って、鋭く男の腹を蹴り上げる。
くの字に曲がる男の体。すかさず俺は追い討ちをかけんと肩口から突っ込んでいく。もつれ合いながら地面を転がる二人。そして、立ち上がったのはこちらが先。すぐさま呻く男の上へとのしかかり、その心の臓へと剣を突き立てた。
「が……っ!」
短い断末魔を吐いて事切れる男。どす黒い血が、暗い地面を染め上げていく。立ち上がり、血糊を払って剣を収めて後ろに振り向くと、エリスが呆然とその光景を見つめていた。
「見るな」
その言葉にハッとして、エリスは男の死体から顔を背ける。僅かに、その肩が震えている。
「行くぞ。長居は無用だ」
「あ――待ってください」
早々に立ち去ろうとした俺の腕をエリスが掴む。と同時に、鋭い痛みが体を走った。
「斬られてます……」
存外傷が深いのか、出血の止まらない腕を見ながら静かに呟く。いつ斬られたかは判らない。戦場ではよくあることだが、この状況下では、それさえ不気味に感じられる。
「ち……っ。こんなのは唾でもつけてりゃ治る。それより行くぞ」
「駄目です。ちゃんと治療しないと」
そう言うと、何をしようというのか、目を伏せ、傷口を覆うように両手を重ねる。
「おい、エリス――」
――目の前の光景に、言葉が消えていく。
淡い、蒼色の光が闇の中に燈る。それは少女の掌から溢れていた。透き通るような優しい蒼が、傷口をそっと照らす。
―――暖かい。
この暖かさには覚えがあった。教会で目を覚ましたあの日。再び眠りにつこうとした時に感じたものと、まったく同じだ。
あの時も、エリスはこうやって……。
そして、傷は癒えた。初めから何もなかったかのように。傷口も、光も、完全に消えてしまった。
「……」
呆然としながら、ただ優しく微笑むエリスを見る。
「レオンさんは、神様を信じますか?」
誰かと同じ問い掛け。言ってやればいい。答えは簡単だ。俺は神など信じていない。あんなものは、人が作り上げた虚構に過ぎない。蜃気楼。早い話が幻だ。
だが、何故かそれを口にすることは出来なかった。ただ首を横に振ることさえも。
「……」
無言をどう取ったか。エリスは俺の答えを待たずに、言葉を紡ぐ。
「これは、神様がくれた力なんです」
冷たい月の光の下、吹き抜ける一陣の風。
凛、と鈴が哀しげにないた。
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