七章〜吹き荒れる紅〜前編
夕方。西日を背中に受けながら、俺はロンメル将軍が詰め所として使っているという建物へ向かっていた。
妙なことに関わってしまったせいか――全部あのカインとかいう少年のせいだ――足が何となく重い。背負った荷物もずっしりとおぶさりかかって、詰所に着いた頃には、このままベッドに倒れこみたい気分だった。
詰所の周りには、何人もの兵士が見張りのために立っている。予告状によれば襲撃は今夜だ。詰所は、張り詰めた空気に包まれている。
「……夜になるまでに、少し休むか。いや、セレーネさんと色々話さないと――」
これからのことに考えを巡らせながら、両側を見張りに守られた詰所の扉を開ける。
「あ、お帰りなさいレオンさん! お疲れ様です」
まず目に入ってきたのは、エプロンを着けたエリスの姿だった。同時に、青臭い匂いが鼻をつく。テーブルの上を見ると、石臼と挽かれた緑色の草が見えた。
他には誰もいない。この周辺を哨戒している兵士達以外は、全員館の方へ出払っているようだ。セレーネさんの姿も見えない。
「セレーネさんがロンメル将軍の所に行っちゃったんで、切り傷に効くお薬を作ってたんです。……私は、これぐらいしかお役に立てないので」
目を伏せ、力なく笑うエリス。昼間の話が応えているのか、また少し元気がないように見える。
「でも、その分たくさん作りますっ。怪我をした人がいっぱい来ても、大丈夫なように!」
そこまで元気よく言い放って、
「――あ。す、すいません。何だか不謹慎なこと言っちゃって……」
また一人でしょげる。空元気もここまで空回ると、さすがに可哀想になってきた。
「よし。じゃあ俺もその薬作りを手伝うとしよう。どうすればいいか教えてくれ」
「だ、駄目ですよ! レオンさんは休んでて下さい! それでなくても、最近あまり寝てないのに……」
睡眠時間が足りていないことは確かだったが、こんな状態のエリスを置いて眠れるほど俺の神経は太くない。
と言えばまたしょげるだろうから、俺は別の理由を口にする。
「みんながこれだけピリピリしてる中で一人眠れるもんか。それに、セレーネさが帰ってきたら話したいこともあるし、それまでの暇潰しだ。だから、俺にも作り方を教えてくれ」
「……解りました。そういうことなら、ばっちりきっちりしっかり、伝授させていただきますねっ」
やっと何時ものように笑ったエリスに安堵して、俺は薬を作り始める。
それから暫くして戻ってきたセレーネさんと、今後のことについて打ち合わせている内に、日は暮れ、音もなく夜は訪れる。
俺は剣を抜き、哨戒のために宿屋から出る。既に警護についている将軍の部下達がこちらを一瞥し、すぐに注意を元へと戻した。抜いた白刃が朱に照らされ、表面が炎と同じくゆらりと揺れる。篝火が辺りを照らしているが、それでもなお闇は深く、見えざる襲撃者を匿っているようにさえ思えた。
このところ、夜はまともに寝ていない。奴等が動き出すのは夜だからだ。
昼間は神の名を語る偽善者の皮を被り、夜の闇を喰らえば、その邪な本性を現す。
奴等は説く。
神の教えを守り、慎み深く生きよと。何人にも愛を与え、そして愛を求めよと。獣であるな、人であれと。
だがどうだ? 獣はどちらだ? 闇夜に紛れ、自分達に仇なす者を消していくのが、神の愛を語る、人たる者の行為か?
――否、断じて否。奴等こそが獣だ。薄汚い血に飢えた狼だ。
そもそも神など存在しない。そんな物は、奴等が創り上げた虚像だ。人の狂気が作り出した最の果てだ。俺は絶対に屈しない。絶対に認めない。
絶対に、エリスを守り抜いてみせる。
一陣の夜風が虫の鳴き声を運んできた。凛、というその音色は、母の形見だというエリスの鈴を思い出させる。
ふと考える。エリスを産んですぐ死別したという彼女の母親とは、一体どんな人だったのだろうか。もしかすると母もまた、同じように力を持っていたのだろうか。
だとしたら、敬虔な信徒だったという彼女もまた――そんな不吉な想像を打ち消して、俺は再び、剣を強く握り締める。
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