《序章》




 沈んだ夜更けの山中を、涼やかな風が撫ぜるように通り過ぎていく。ざわめく梢が散らしているのか、影でむした苔が乗せているのか、宿した緑の香りが濃い。陣を囲む松明と平家の紅旗が、小さく不満の声を上げながら揺れる。

 平行盛(ゆきもり)は、吹き抜ける初夏の風を胸一杯に吸いこんだ。草木が息づく湿りを帯びた、むせる程の山の匂い。だがそれが心地良い。出来ることなら、今すぐ纏った鎧を脱ぎ捨て、足下で茂る草を枕に眠りにつきたかった。しかし平軍指揮官の一人である彼にとって、それは叶わぬ願いである。

 飽くまで眠るは、木曾の田舎侍を降した後よ。行盛は座していた陣を出ると、砺波山(となみやま)の山肌から、眼下を鋭く睨みつける。宵の闇に阻まれてしかと見ることは出来ないが、見詰める先には敵方である源氏の将、木曾義仲の敷いた陣があった。

 坂を背に陣を構えたこちらに臆したのか、昼間は兵を小出しに差し向けるばかりで、決して大規模に動こうとしなかった源氏方。何か策があるのやも知れぬが、いくら兵を弄したところで平家四万の大軍の前には無駄というもの。源氏の血も、長い雌伏の内に腐りきったと見える。

 息を一つ、大きく吐いた。ここは春を迎えると、八重桜が咲き乱れる花の名所らしい。この地を訪れる時期がもう少し早ければ、陰鬱な気分も少しは晴れただろうに。歌人としても知られた行盛は、詮無いと解っていてもそう思わざるを得ない。早くこの戦を終わらせて、元の生活に戻りたかった。



 時は平安末期。平清盛が、武家の棟梁として初めて政の実権を握ってから、約二十年の月日を経た治承四年(1180年)。

 源氏の一族である木曾義仲は、長年の専横で都を乱した平家を討つべしとする、以仁王(もちひとおう)の令旨に応じ、信濃国で挙兵。平家方を破り北陸方面にその勢力を大きく広げていた。対する平氏はこれを沈めるため、四万もの大軍を派兵。そして迎えた寿永二年(1183年)五月。平軍は小競り合いを経て、越中加賀の国境にある砺波山、猿ヶ馬場に陣を置き、木曾の軍と睨み合いを続けている状態であった。



 数は圧倒的に平軍が有利。今は寝所で休んでいる総大将、平惟盛(これもり)の下知さえあれば夜が明け次第、源軍を正面から粉砕する心積もりで行盛はいた。幸いにも陣を張ったここ猿ヶ馬場は、四方を切り立った崖に守られた天嶮。月明かりの乏しい今宵とて、夜襲の心配はない。平家の勝利は、最早確定したも同然であった。

 また風が吹く。普段ならば気にも留めないささやかなものだ。新緑の匂いも届かず、松脂の焼ける臭いにかき消されてしまう。気付けば、平軍は水を打ったように静まり返っていた。慣れない遠征で疲れ果てているのか騒ぎ立てる者は誰もいない。運悪く見張りに選ばれた者達が、瞼が落ちてきそうなのを懸命にこらえながら、大儀そうに辺りを行き交うのみである。

 故に平軍は、背後の暗闇に源軍の別働隊が潜んでいることにまったく気付いていなかった。平軍はこの場所が天然の要害であると信じ込んでいたが、この土地の理に通じていた源氏側は、その抜け道を把握していたのであった。

 平軍の背後につき、三千余騎を従え今まで息を殺していたのは、義仲四天王と呼ばれた猛将、樋口兼光の率いる部隊である。しかし兼光は、後方より油断しきった平軍を見ても自ら打って出ようとはしない。憎き平軍がこれほど無防備でいるというのに――兼光にも、そして部下達にも逸る気持ちはあった。だが彼らはひたすらに待った。後の世に伝えられるほどの、歴史を変える瞬間を。真に武家が台頭する時代の到来を。

 そして悲願の時は訪れる。



「む……?」

 不意に感じた大地の揺れに、行盛は初め、地震が起こったのかと思った。だが外より聞こえた悲鳴に、慌てて外へ出ようとしたところで、

「も、申し上げます!」

 物見の一人が、陣中へ転がり込んでくる。

「何事だ!?」

「う、牛が、数多の牛がこちらへ押し寄せて参りまする!」

「牛だと!? 馬鹿を申せ!」

 にわかに信じがたく自ら確かめに出た行盛であったが、飛び込んできた光景に愕然とし、言葉を失う。

 激しい地鳴りを伴いながら、怒涛の勢いでこちらへと駆け上ってくる無数の巨影。目を凝らせば、正体が人間でないことはすぐに判った。尾を火で炙られ、さらに松明を角に括りつけられたため、半狂乱になった牛の奔流。彼方より見れば、それは怨嗟の唸りを上げながら進む人魂の大軍にも見えただろう。それが、自軍に向かって猛進している。

「お、おのれ義仲……!」

 暗闇に乗じ、まさかこのような奇策を打っていたとは! 行盛は臍を噛んだが、時既に遅し。敵が人なれば打つ手もあったが、山道をものともせず猛烈な勢いで突進してくる牛が相手ではとても太刀打ちできない。現に平家の兵達は、事態を察知した者から我先にと武器を捨て逃げ出し始めていた。味方を押し退けようが構いはしない。辺りには倒れた平家の紅旗が、踏みにじられ泥を被っている。

「陣を払え! 後退するぞ! 惟盛様の守りを固めるのだ!」

 指示を出し、自らも馬に跨り下がろうとした矢先。今度は後方より、太鼓と法螺貝の混ざった凄まじい音の氾濫と、野太い鬨の声が轟く。

「まさか、源氏の別働隊か……!?」

 行盛の直感は当たっていた。暗闇に身を潜めていた樋口兼光の別働隊が、今こそと逃散する平家方に襲い掛かったのだ。

「敵は総崩れじゃ! 一兵たりとも逃がすでないぞ!」

 自ら太刀を振るう兼光を先頭に、勢いに乗った木曾の兵達は次々と平家の武士を討ち取っていく。火牛による奇襲に、背後からの挟撃。さらに遅れて木曾の本隊や他の別働隊が四方八方から現れ、次々と平軍の退路は封鎖されていく。

 もはや正気を失った平軍の兵達は、最後に残された逃げ道へと必死の思いで駆けていく。だがその先にあるのが、全てを飲み込む漆黒――倶利伽羅峠(くりからとうげ)の岸壁であると気付いた時にはもう、あまりに多くの者達がその場に殺到してしまっていた。  断末魔を響かせながら、人、馬、荷駄が何の境もなしに次々と谷底へと消えていく。落ちてしまえば皆同じ。深き顎(あぎと)を僅かに埋める肥しとなるだけだ。日が昇れば、たかった蠅が谷底をさらに黒く染め上げているに違いない。

 そんな阿鼻叫喚の地獄絵図を、源軍総大将である木曾義仲は、愛妾の巴御前と共に離れた場所から見下ろしていた。

「これで、京への道が開けました」

 巴の言葉に、義仲は満足げに頷く。これで平氏は戦力の大半を失った。この勝利が時代の幕開けとなる。義仲は確信していた。今の自分には力も天の加護もある。この勢いが続けば、宿敵平家を打ち倒すことも夢ではない。

「義高様も、きっとお喜びになります」

 聞こえた息子の名に、義仲の頬が僅かに動く。

「……この勝利を共に分かち合うことが出来れば、どれ程良かったか」

 呟くように言い、しかし義仲はそれ以上考えることをしなかった。今はただ前に進むことを思うのみ。後ろ髪を引かれているようでは何時か足下をすくわれよう。そうなっては、二度と義高と会うことも叶わなくなる。

 この義仲が平家を倒し、源氏の嫡流となればいいのだ。そうすれば憎き頼朝の手から、愛する我が息子を、鎌倉で人質として耐える、愛する義高を取り戻すことが出来る。ただそれだけのこと。

 血肉の臭いを孕んだ一陣の風が、傍らを無言で吹き抜けていく。骸を敷き詰めた谷底からは、己を呼ぶ声が聞こえてくるような気がした。




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