《一章》
「いたぞ! 逃がすな!」
「絶対に捕まえろ! 子供とて容赦するな!」
口々に発せられる男達の叫びが、降りたばかりの宵の帳を、痛いほどに震わせる。鬼気迫る表情で駆ける男達の先――野太い声を背に浴びながら走り続けているのは、まだ元服したばかりの少年だった。
追いつかれたか! 荒く息を吐きながら逃げるその少年は、心の中で歯噛みする。逃亡を続けてもう五日。体は既に疲労困憊に達していたが、それでも少年は足を動かすのを止めない。
頼朝の好きになど、させてたまるか! 毒づき、河原の石に足を取られそうになりながらも目指すのは、行く先に流れる川だ。焦燥に駆られる少年とは対照的に、ゆったりと静かな水音を奏でる入間川。この川を越えて向こう岸に渡る以外、追っ手から逃れる方法はない。捕まればそこで終わりだ。
もっと、もっと早く動け! 軋む足に鞭を打ちながら、少年は必死に川へ入ろうとするも、
「義高、往生際が悪いぞ!」
あと一歩というところで、追っ手の男達が目の前に立ち塞がる。少年――義高はそれでも諦めず、抜刀。斬り伏せてでも活路を見出そうとするが、後から来た男達に組み伏せられ、少年の矮躯は敢え無く冷たい石の地に沈む。鎌倉の屈強な武士達から逃げ切るには、義高はあまりにも幼く、無力であった。
前に立つ男の一人が、太刀を鞘から滑らせた。無骨な手に握られた白刃は、松明の光を跳ね、眼前で組み敷かれた少年を赤銅に染めて映す。その顔は苦痛と、そして憤怒に歪んでいた。
「下郎、離せ!」
義高は切っ先を突きつけられてもなお吼え、大の男に押さえつけられても構わず足掻く。体の下では河原の石がこすれ、じゃりじゃりと不快な音を立てている。すぐ傍を流れる川の、清らかなせせらぎとは程遠い、醜い音。武士の持つべき潔さとは程遠い、醜い姿。
しかしどのような醜態を晒そうとも、義高は生き延びるつもりでいた。こんなところで死にたくない。死ぬ訳にはいかない。生きて、生きて!
「生きて、俺はもう一度姫に!」
悲しさと悔しさと愛しさと。あらゆる感情がない交ぜになって、義高の瞳から涙となって零れた。見下ろす郎党の顔が僅かに歪むが、差そうとする魔を振り払うように、手にした刀は天へと掲げられる。
「姫に――!」
ひょう――と、風が裂かれると同時に、義高の言葉は絶たれる。変わりに、頭部が離れた首から鮮血が噴き出した。叫び声を音無き呪いに変えて。春とはいえ、まだ冷える川岸を生暖かい紅が染め上げる。
その光景はさながら、あの世にあるという賽の河原であった。
※
夢はいつもそこで終わり、殺された記憶は暗い忘却の中に埋没していく。夢は何人も見通すことの叶わない、漆の海に呑み込まれる。そして全てを忘れることで、義高は安らかな眠りを得ることが出来る。
しかし「声」はそれを許さない。
――かくれかねたるよのなかの――おくれさきたつ物うさは――
夢を呑みこんだ暗黒より、さらに向こう。遥か遠くから声は聞こえてくる。黒とうとうたる闇に阻まれてくぐもってはいたが、何を言っているのかははっきりと解る。
――そのとか、いまよしたかに、つもりきて――
声は一つではない。いくつもの声を重ねた不吉な言葉の束が、ぼんやりとした重さをもって義高に届き、心へと纏わりつく。忘れさせてはならない。殺されたことを義高に忘れさせてはならない。そのために声はやがて、無数の虫となって義高の精神を食んだ。
――いまをかきりとなりたまふ――さいこの事そ、いたはしき――
虫は顎を鳴らして眠りを苛み、意識を覚醒へと向かわせる。ちりちりと、眠りを食い千切られる不快な音が、夢を失いがらんどうになった頭の中で延々と響む。
目覚めは、すぐそこまで来ていた。
※
「やめろ!」
怒鳴り声を上げるのと同時に、木曾義高の目が覚める。起こした上半身から、掛かっていた布が落ちてさらりと僅かに音を立てた。零れる月明かりが寝所をほのかに照らし、吹く風を受けた御簾が、影ごとその身を静かに揺らす。夜は無言だ。蚊帳に覆われたこの部屋では、小さな虫さえ静寂を邪魔することは出来ない。
義高は一つ息をつく。悪い夢を見たようだった。七月とはいえ今宵は風もあって涼しいのに、額には汗の玉がじんわりと浮かんでいる。自分の名前を呼ばれた気もしたが、こんな夜更けに起きている者などいる筈がない。近侍の小太郎や東(あずま)はもう眠っているし、ここにいるのは二人だけ。自分と、そして隣の布団で静かに寝息を立てている――、
「よしたかさま……?」
淡紅の唇をから紡がれる、まだ眠気を孕んだ少女の声。
「すまん。起こしたか?」
「いえ、その……いかがなさいましたか……?」
絹の寝間着に包まれた小さな体が、わずかな衣擦れの音と共にこちらを向く。真っ直ぐな濡れ羽色の髪は、墨で染めた扇のように、白い布団の上で広がり投げ出されたまま。普段は義高をはっきりと写す大きな瞳も、薄く開かれただけで焦点が合っていない。
義高の幼妻である大姫は、まだ夢と現の間にいるようだった。
「気にするほどではない。少し、妙な夢を見ただけのことだ」
「……そうですか」
「それにしても、姫に案じていただけるとは、まことかたじけない」
嫌な汗を払うように、冗談めかして言うと、
「別に、さような由ではございませぬ」
いつもの調子で義高を突っぱねて、体を再び反対側へ。やがて二度目の眠りについていく。以前よりは随分口をきいてくれるようになったが、こうして時たま一緒に寝るようになっても姫は相変わらずだ。いつになったら、もっと夫婦らしく出来るのやら。
苦笑を浮かべて、義高も再び目を閉じた。今度は、良い夢を見られるように。姫の夢か、あるいは父の――ささやかに願いながら、少年は眠りへと落ちていく。
時は遡り、寿永二年(1183年)の三月。木曾義仲が倶利伽羅峠で勝利を収める二月ほど前の、春のこと。
義仲の息子である木曾義高は、生まれ育った信濃国木曾を後にし、僅かな供を具して鎌倉へと入った。十一歳で元服したばかり。まだ武士と名乗るにはいささか幼さを残した少年はこの時、目の前に広がる景色にただただ驚いたことを覚えている。
以前の鎌倉は、漁師や老人ばかりの辺鄙な土地であったと聞いていた。しかし今や源頼朝の住居である大倉御所を中心に辺りは整備され、並ぶ立派な屋敷は、鎌倉がすっかり武家の中心地に変貌を遂げたことを現していた。
「これが、坂東一と謳われる頼朝公の力か……」
豪胆で知られた父の血を感じさせる精悍な眼が、新生した鎌倉の姿を色鮮やかに映し、まだ見ぬ頼朝の姿をも浮かび上がらせる。
彼の噂は嫌というほど聞いていた。伊豆に流された罪人の身から一変、平氏に不満を持つ各地の豪族を束ね、士川の戦いで見事に平家を撃退。それより先も勝利を重ねた稀代の武将だ。
今では頼朝に比肩する勢力は関東から完全に駆逐されており、彼が率いる鎌倉は名実共に、平家に対抗しうる一番の勢力となっていた。
その頼朝が自分の義父になろうとは、義高はつい最近まで夢にも思っていなかった。源氏の血というのはやはり数奇なものだと、馬上で揺れる義高は改めて思う。
義高が鎌倉へとやってきた理由。それは頼朝の娘である大姫の、婿となるためだった。
「しかし、存外いい所だな。少し行けば海とやらもあるし、今から見るのが楽しみだ。馬に乗って来た甲斐があった」
「あの、若……」
「どうした小太郎」
「あ、あまりきょろきょろとされるのは……行儀が悪いと申しますか……田舎者丸出しと申しますか……」
せわしなく辺りを見回す義高を、隣で従う少年が弱々しい声で諌める。義高と同い年でありながらずっと童顔なその少年は、名を海野小太郎幸氏といい、義高に従い木曾からやって来た者の一人だった。
「田舎者とは、随分はっきり言うな」
「も、申し訳ございません若っ! し、しかしながら小太郎は若の近侍として……」
「よい。実際、俺は田舎者だ」
小太郎の視線を軽くいなして、カラカラと笑う義高。思えば信濃はおろか、木曾の外にさえろくに出る機会がなかった。都の人間からすれば、自分達は田舎者を通り越して山猿も同然だろう。
「御所に入ればどうせ幽閉同然の暮らしが待っておるのだろう。だから、その前に色々と見ておきたくてな。せめて大姫とやらが可愛いい子だと良いのだが。はっはっはっ……」
投げやりに笑い続ける主を見て、小太郎は溜め息をこぼす。呆れたからではない。主を真に案じてのものだと、義高には気付いていた。武家の子にしては気弱だが実直な性格であることを気に入られ、近くに置かれている小太郎には、義高の空蝉の如き虚勢と、底知れぬ不安が悲しいくらいに解るのだ。
この鎌倉が、自分の墓場となるかもしれない。義高の胸には常に、その思いが渦巻いていた。
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