《二頁》




「義高。お前は人質として鎌倉へ行くのだ」

 父である義仲の言葉を、義高は思い出す。

 鎌倉へ入る数週間前。この頃、頼朝と義仲の関係は非常に悪化していた。事の発端は、先の戦いで頼朝と敵対し、敗れた源義広・行家を、義仲が受け入れたことに始まる。

 頼朝側は両者の受け渡しを要求したが、一度匿った者たちを引き渡せば武家の名折れと義仲がこれを拒否。衝突寸前まで事態は進んだが、交渉の末、木曾の嫡男である義高が、頼朝の娘である大姫の婿となることで事態は収束する事となった。

 だが無論、婿入りなどとは名目上に他ならない。義仲の言う通り、義高は頼朝の元で人質となるべく、鎌倉へ赴くことになったのだ。

「不甲斐ない父を許してくれ、義高。だがいずれ近いうちに、きっとお前を取り戻す。平家を、そして頼朝をも倒し、わしが源氏の棟梁となることでな」

 まるでそれが容易であるかのように、義仲は息子にさらりと言ってのけた。故に義高も、幾分救われた気持ちで鎌倉へとやって来ていた。挙兵以後、頼朝ほどではないものの勢力を急激に拡大しつつある父上ならばきっと、あの言葉を真としてくれよう。そう信じていた。



 御所に着くと、立派な門構えと大勢の見張り達と共に、東と名乗る男が義高達を出迎えた。

「長旅、お疲れ様です。ようこそ鎌倉へ」

 かなり若い男だったが――といっても義高よりはずっと年上だ――纏った翡翠色の装束は動くたびにさらりと音を立てて、質の良いことを感じさせたし、携えた太刀の鞘にもささやかながら雅のある装飾が施されている。何より東本人の整った顔立ちが、全体の品を高めているように思えた。

 それなりの地位にあるのだろうと思い尋ねてみると、どうも伊豆にいた頃から、頼朝の妻である御台所様(北条政子)に仕えていたらしく、その信頼の厚さから今回、義高の世話役を任されたとのことだった。

「信頼が厚いなどとは、自らの口で言うべきではないと思うが……」

 思わず義高がこぼすと、

「本当のことでございますから」

 そう、笑顔で東は答えた。変わった奴だ。どうせならもっと普通の世話役を所望したいところだったが、人質の分際で大きなことは言えない。

 とりあえず荷物の運び入れは東や小太郎達に任せて、義高は御所の中を見て回ることにした。東曰く、頼朝は忙しく謁見は夕餉の後になるので、それまで御所の中を見るなり部屋で休んでいるなり、好きにしてよいとのことだ。徘徊するのが良いこととは思わないが、万が一のこともある。自分が軟禁される場所を見ておくのも必要なことだ。

 御所の中では、慌しく人が行き交っていた。襖を閉じた方々の部屋から、合議の声も聞こえてくる。塀の内にあるいくつもの桜の木が、見事な花を咲かせていたが、誰も庭先へ出て花見をしている者などいない。関東を治めたとはいえ東国経営は始まったばかり。問題はまだまだ山積している、といった状態なのだろう。頼朝が忙殺されているというのも頷ける。

 そのまま当て所なく中を彷徨っていると、気付けば喧騒も遠ざかった、人気のない外れの棟へと義高はやって来ていた。先ほどまではすれ違う人々も、義高を怪訝そうに見詰める武士達が殆どであったが、今は物静かに通り過ぎていく女房ばかり。つまりここは女性達が詰めている場所ということだ。

 こんな所を見ても仕方がない。そろそろ戻って、小太郎達の手伝いでもしてやろう。特に躊躇うことなく踵を返した、その時だった。

 義高の視界に、小さな影が映る。その正体は、桜の舞う庭に一人佇む少女。義高よりもなお小さい体に、不必要なくらい煌びやかな衣を纏い、桜色の霞の中で艶のある黒髪を流している。その少女がじっと、こちらを見ていた。深い黒をたたえた大きな目。そこに強烈な眼光が宿り、射抜くように義高を見詰めている。

 普通の子供ではない。絢爛なる出で立ちが、貴(あて)なる雰囲気が、稚(いわ)けなさのない立ち姿が、それを感じさせる。

「もしや……そなたが大姫か?」

 思い切って、義高は少女に声をかけた。

「……はい」

 抑揚のない言葉と共に、小さく少女は頷く。やはりそうか。改めて義高は姫の顔を見る。確か年は八つと聞いていたが、その小さな顔は驚くくらいに大人びた顔立ちで、黒曜石をはめこんだような瞳と相まって、女童からは程遠い、凛とした印象を与えている。

「俺は清水冠者義高。今日、木曾から参った」
「はい、存じています」

 季節は春。だが返された声は雪解けの清流のように冷たく、顔も氷の面をかぶったように動きがない。ただ、視線はさっきのままだ。義高はその眼差しに、氷柱を突き立てられるような錯覚を覚える。睨まれているという訳ではないのだが……。

「……俺の顔が、どうかしたか? 自分では、なかなか将来有望な面構えだと思うが」
「確かに、木曾の山猿にしては立派なお顔かと」

 冗談も冷たく流される。どうやら幼い妻にとって、年上の婿はあまり快いものではないようであった。急な話で無理もないことだったが、しかしこれから一応、夫婦となる仲。親交を深めておくに越したことはない。そう思って義高は一歩、足を前に進めたのだが、

「……!」

 姫の方は一歩、はっきりと後ろへと下がる。今まで微動だにしなかった顔が僅かに歪み、吹きぬける強い風が、ざあっと咲き乱れる桜の花を散らした。やはり木曾義高という存在は歓迎されていないらしい。

「出来れば、好(よしみ)を通じたいと思っているのだが……」
「……殿方は、あまり好きではございませぬ」
「では、女子が?」
「山猿よりは」

 取り付く島もない。初日からこの嫌われようでは、さすがに先が思いやられる。

「……左様か。ではとりあえず、今日のところはこれで」

 また日を改めて訪ねれば、違った反応がもらえるかもしれない。義高は今度こそ踵を返し、奥の棟を後にする。



 その日の宵の口。挨拶を済ませ、昼間のことを語った義高に、頼朝は頬を緩ませて言った。

「そうか、大姫にはもう会ったか。なかなかの曲者であろう? ははは!」

 酒で少し紅くなった頼朝の顔が、娘の話をし出した途端、大いに綻ぶ。 

「昔はそうでもなかったのだが、何いつ頃からか、どうも男というものが苦手らしくてな。父と東以外の男とは喋ろうともせんので、私も困っておるのだが……」
「お前さま。そのように笑顔では、とても困っているようには見えませんよ? ふふふ……」

 義高の前で、頼朝と政子が揃って笑う。親馬鹿だ。それも筋金入りの。こうして笑っていれば、どこにでもいそうな普通の父母にしか見えない。

 鎌倉の御所様と御台様と対面するということでかなり気が張っていた義高だったが、二人を前にした今、既に緊張の糸はぷっつりと切れてしまっていた。祝いのためと持ち込まれた、酒の臭いが鼻につく。気を抜けばげんなりした顔を見せてしまいそうになるのを、義高は必死に笑顔を作ってこらえている。

 面倒なところに来てしまった。本当にこれが頼朝なのか? こんな親馬鹿に、父義仲は屈服させられたのか? それより明日からどう過ごしたものか。あの姫の機嫌は治っているだろうか。顔は良かったが気立ては最悪だ。しかし少しでも仲良くならねば和議に支障が――。

 心配事は、雨後の竹の子の如く湧いてくる。親馬鹿談義に愛想よく相槌を打ちながら、義高は心の中で深い溜め息をついた。



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