《二章》




 鎌倉入りから二週間近くが経った、気持ちの良い晴れた朝。義高は奥の棟、大姫の部屋の前までやって来ていた。それは、義高が御所にやって来てから殆ど毎日見られる光景――幼嫁の元に通う若き婿の図であった。

 傍から見れば彼の姿は微笑ましく映ったかもしれない。しかし義高の心中は穏やかではなかった。その証拠に握った手は固く握られ、呼応するように表情も引き締まり、戦に出る武士のそれと言っても過言ではない。

 鎌倉と木曾との和議を乱さぬためにも、今日こそは、今日こそは姫との親睦を深める!

「姫、海に参りましょう!」

 秘めた決意を金剛として、勢いよく襖を開け放つ義高。その鼻先を、白刃が風を裂いて通り過ぎる。挨拶代わりに振るわれたのは、姫の手に握られた薙刀だ。

「……今日はまた、熱烈なお出迎えでございますな」

 あっさり斬り捨てられる、金剛の決意。ここ数日は太刀での挨拶にすっかり馴染んでいたが、まさかそれ以上に、姫から距離を取らされるとは思ってもみなかった。

「もう来ないでいただきたいと、十重に二十重に申し上げたはずですが」

 そんなことは百も承知。鎌倉に来たあくる朝から毎日のように言われているのだから、嫌でも耳に染み付くというものだ。しかし、木曾と鎌倉の和議に水を差さないためにも、良好な関係を構築することは必要不可欠。気にせず義高は言葉を続ける。

「ずっと中にいては体に毒です。今日こそは外に出て、一緒に遊びましょう。そうすれば自ずと、互いのことも解ってくるというもの」
「山猿と遊ぶ趣味はございませぬと、何度も」
「なら話すだけでも。そうすれば自ずと」
「山猿と話す舌は持ちませぬと、何度も」
「なら――」

 なおも粘ろうとした義高の鼻先に、再び薙刀が突きつけられる。ぱらぱらと、何か細いものが足元へと落ちてきた。幾らか、髪を持っていかれたらしい。

「次は御首級(みしるし)を頂戴したいと思いますが、いかがでしょう?」

 ゆらりゆらりと、剣呑に揺れる切っ先。よく磨かれた刃からは、春の陽気をも凍らせる冷たい殺気が滲んでいる。本日の姫様は、本当に本気らしい。

「い、いや。どうやら今日もご機嫌が悪いようなので……御免!」



 何時ものように、姫に追い立てられた義高は、また何時ものように御所近くの草むらに寝転んでいた。隣ではこれまた何時ものように、小太郎と東がまめまめしく弓の練習をしている。

 御所での生活は、思っていたよりはるかに自由であった。東という世話役の許可さえとれば御所の内外は自由に出入り出来たし、禁則事項も殆どない。食事も木曾にいた頃より豪勢だ。人質らしく軟禁生活を強いられると思っていた義高にとって、今の状態は至れり尽くせりとも言えた。

 ただ一点、大姫のことを除けば。

「若様は、また姫様をお連れするのに失敗したご様子で」

 笑顔の東から放たれた矢が、見事に的の中心を射抜いた。ここまで皆中、相変わらずの見事な腕前だ。比べてこちらは、

「ああ。まったくさっぱりだ」

 広がる蒼天には似合わぬ、湿った言葉が義高からこぼれる。

 大姫と仲を深めるため、義高は今日のように遊びに誘うなど、様々な手を打っていた。しかし姫の態度は一向に変わらず頑なで、まともに話そうとさえしない。ならばと一度、先人に習って歌を贈ってみたが、その返歌が何と矢文で撃ち込まれる始末。源氏の君も裸足で逃げ出す有様だ。

 唯一の変化といえば、彼を出迎える姫の得物が、小太刀から太刀、太刀から薙刀へと、徐々に物騒になっていったぐらいで、関係が進展する気配は微塵も感じられない。

 困り果てた義高は一度、彼女の母親である北条政子にも相談してみたが、

「安心なさい、義高殿。あなたの気持ちは、きっと姫にも伝わっていますよ。私も昔、伊豆にいた頃は御所様(頼朝)の元に幾度となく通って――」

 と、過去ののろけ話を聞かされただけで収穫はなし。最早打つ手なしというのが、彼の正直な心境であった。

「あんな頑固者は捨て置けばよいのです!」

 諦め気味な義高とは対照的に、声を荒げているのは小太郎だ。

「小太郎殿は、姫様がお嫌いで?」

「嫌いもなにも!」

 東の言葉に応じた小太郎の矢が、的を大きく外れて飛んでいく。小太郎も東に劣らず良い腕の持ち主なのだが、他のことに気を取られていては当たる物も当たるまい。

「若が来る日も来る日も、これほど誠意を示しているのに、それを無下に追い返すとは何と勿体な――いえ、無礼千万です! いくら姫様と言えども、ば、万死に値します!」
「おいおい。お前が怒っても仕方あるまい……」

 普段は気弱で、女侍と揶揄されることもある小太郎がこれほど怒るのは珍しい。なだめにかかる義高だったが小太郎の怒気は収まらない。

「いいえ、主を馬鹿にされて黙っていては家臣の名折れ! 若のために小太郎があの痴れ者を、て、手打ちにしてご覧に入れます!」
「そんな必要はない。お前は黙って弓の練習をしていろ」
「わ、若ぁ……」

 俺はただ最低限、木曾と鎌倉の和議が壊れぬ程度に、姫が付き合ってくれればよいのだ。それはとてもささやかな願いだと義高自身は思うのだが、現実は厳しい。

「なぁ東」
「はい」
「何ゆえ姫は俺のことが気に入らんのだろうか。そもそも、どうしてあのような男嫌いに?」

 頼朝は、自分は懐かれているからといって笑って話をしていたが、男に対するあの振る舞いようは異常だ。何か特別な事情があるようにしか思えない。

「……これは、あくまで私見ですが」

 再び矢をつがえる東。きりきりと弓の軋む音が、辺りの空気をわずかに緊張させる。

「姫様は、伊豆にいた頃の生活が恋しいのではないでしょうか」
「……?」

 東の言葉が解せず、首を傾げる義高。

「もともと姫様は伊豆で、御所様と御台様と、三人で静かな生活を送っていられました」

 義高も、政子が伊豆にいた頃に大姫が生まれ、頼朝が挙兵してからは二人共に戦火を逃れるため、頼朝から離れていたことは聞いていた。

「東は、そのころから御台様に仕えていたのだろう?」
「はい。御台様と御所様が夫婦になる、ずっと前から。今は落ち着きましたが、昔は御台様もやんちゃなお方で――」

 ひょう、と音を残して飛んでいく矢。話ながらも、見事的中。

「――そう、昔は平和でした。親子三人、水入らずの静かな毎日。詮無い話ですが、以仁王の宣旨がなければ、今も姫様達は、暖かな伊豆の風に吹かれていたのかもしれません」

 だが現実は違う。伊豆で挙兵した頼朝は坂東の士達を束ね、鎌倉の御所様となり、そして政子は頼朝の妻から、御所様の妻である御台所様となった。もう二人は、大姫だけのものだけではない。

「……源氏の武士達が、平家をよく思わない多くの男達が頼朝様を担ぎ上げ、平和だった生活を乱した。だから、姫様は男を嫌うと?」
「あくまで私見ですが」
「……」

 確かに言わんとすることは解る。姫も武家の娘とはいえ、十にも満たない幼子だ。まだまだ親の愛情を必要とする年頃だろう。義高自身、離れて暮らしていれば寂しく思うこともある。

 だが、本当にそれだけなのだろうか? 本当にそれだけで、自分をあれほど遠ざける理由になるのだろうか?

 義高は合点のいかぬまま、空の眩しさに目を細める。



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