《二頁》
あくる日、大姫の部屋を訪ねた義高が見たのは、驚くぐらいに平和な光景であった。
「ようこそおいでなさいました、義高さま」
「あ、ああ……」
至極普通のやり取りが行われたことで、逆に怯む義高。迎えた姫は相変わらずの無表情ではあったが、今日は何の得物も持ち合わせていない。梅花の香が焚かれる中、机に向かってか細い筆を一本握っているだけ。こんなことは初めてだった。
「姫、それは……?」
小さな紙に姫が奇妙な文字を書いているのを見て、義高が尋ねる。
「梵字でございます」
その問いに、これまた珍しく素直に答える姫。梵字とえば元は天竺の言葉だが、日の本では南山(高野山)の呪法などで用いられ、その文字自身に、神聖な力が宿るとされている。
「姫は、呪い(まじない)が出来るのか?」
「東殿に少しだけ、教えていただきました」
東は昔から御台様に仕えていたこともあって、他の男に比べれば少しだけ、姫も心を許しているのだと、義高は政子から聞かされていた。
しかし東が呪術を……文武両道で何でも出来る奴だが、まさかそんなものまで心得ていたとは。いつも笑顔を浮かべて何を考えているのか釈然としない男だが、一層、よく解らなくなった。
そうやって義高が東のことを考えているうちに、姫はすらすらと梵字を紙にしたためていき、
「……出来ました。愛染明王様のご加護を得られるお札にございます」
完成したお札が、小さな手に乗せられて義高へと渡される。
「これを、俺に……?」
「はい。姫の、義高様への気持ちでございます」
今まで無表情だった姫が、少しだけ、ほんの少しだけだが、顔を赤らめる。
「愛染明王様は性愛を司る明王様。わたしの気持ちをこめたこのお札は、きっと義高さまの御身をお守りしてくれましょう」
「ひ、姫……!」
邪険も邪険に扱われ、半ば諦めていた今日。まさかこのような時が訪れるとは思っていなかった義高の目に、思わず涙が湧き上がる。無駄ではなかった。どれだけ人として扱われずとも、諦めず通い続けた甲斐があった!
「して、このお札にはどのような願を?」
嬉し涙に濡れた目をこすりながら義高が訊くと、
「はい。義高さまのご一物がお役に立たたなくなるよう、お祈りをこめさせていただきました」
そう、姫は答える。
「役に立たないようにか。ははは、なかなか上手いことを……うん?」
頭の中で、今の姫の言葉を反芻してみる。俺の一物が、何と?
事態を飲み込めない義高を置いて、大姫は一人、とうとうと話し始める。
「武家の殿方は側室をもたれるのが普通であると聞きますが、母上はそのような方は夫に迎えるべきでないと常々申しております。邪魔する者があれば、鎌倉の海に具足を着せて沈めてしまえとも」
姫の言葉は、義高にある事件を思い出させた。それは頼朝が通っていた女の家を、政子が嫉妬から襲撃させたという事件である。この鎌倉において、政子の夫に対する苛烈な愛情は誰もが知るところであった。
「わたしは母上のことを愛し、尊敬しております。ですから、そのお志に合う夫婦にならねばと常々考えておりました」
「そ、そうか。それは殊勝なことだな……」
応えながら、言い知れぬ恐怖を感じ生唾を飲む義高。
「ですから、義高さまにはそのお札を三日三晩、肌身離さず持っていただきたく思います。そうすれば呪いは成り、他の女性と蚊帳を共にすることもなくなりましょう」
「……それは、つまり」
「はい。一生、せり立たなくなるということです」
にっこりと、姫が笑う。それは義高が初めて見た、姫の笑顔だった。可愛らしい。とても可愛らしい、つつじが咲いたような可憐な笑顔。しかし義高の体は、まるで氷室に放り込まれた子犬のように震え始めていた。
一生。これからずっと。金輪際。永遠に。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
気付けば義高は部屋を飛び出し、御所の外へと駆け出していた。そして近くの小川のほとりへ駆け寄ると、
「愛染明王、お許しあれぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
奇声を上げながら、お札をちぎっては捨て、ちぎっては捨てる。粉微塵になった元お札は、清らかな川の流れに乗って遠くへと流れていく。それを見送ってから、河原に大の字になる義高。荒い息遣いが、せせらぎの音色に雑音となって混ざる。
あ、危ないところだった。この年で益体なしにされてしまっては、それこそ男の名折れ。いくら木曾のためでも、それだけは御免被る!
「……そこまで嫌わずともよいだろうに……」
こぼれた言葉は、少し震えていた。今まで木曾のためにと思い大姫との関係を良くしようとしてきたが、これ以上はもう何をやっても薮蛇だろう。あの姫に関わらぬ方が、元より木曾のためだったのだ。
疲れたな……。
立ち上がり、ふらふらと歩き出す義高。取り立てて行く場所もなく、かと言って御所に戻る気にもならない。ならばいっそ、このまま木曾に帰ってしまおうか。馬鹿げた考えで自分を励まそうとするが、逆に暗澹とした気分が義高を襲う。それが叶えば、どれだけ良いことか。
結局、傷心の義高が足を運んだのは、夕刻を迎えた御所近くの海、由比ヶ浜だった。
時間のせいか、広がる浜には誰もいないようだ。耳に届くのは、心地よい潮騒の調べのみ。沈みかけた夕陽を映し、真っ赤に染まった水面が美しい。潮の匂いが鼻をくすぐる中、義高は湿った白砂の上に小さな足跡を残していく。
二度目は姫と共にと思っていたが、残念だな……。
初めて海を間近で見たのは、鎌倉へやってきたあくる日のことだ。海の雄大さはまだ少年である義高の心を掴むには十分すぎ、そして小さい頃から伊豆で海を見ていたという大姫への、軽い嫉妬さえも覚えさせた。だから海のことを色々と、姫に教えてもらえればと思った。海のことを教えてもらいながら一緒に遊べば、少しずつでもきっと、仲良くなっていける。そう思っていた。
しかし結果はご覧の有様だ。思えば山育ちの自分とは違い、伊豆にいた姫からすれば海など見飽きたものだったのかもしれない。それに誘おうなどと、初めから自分は思慮に欠けていたのか。
「やはり俺は、田舎者の山猿か」
誰に言うとでもなく呟いた言葉が、白波に揉まれて消えていく。応える者など誰もいない、虚しい独り言。だから――、
「……ここでございましたか」
「うわぁっ!」
背後から返ってきた声に、義高は文字通り、飛び上がって驚いた。慌てて振り向くと、そこにはいる筈のない大姫の姿。
「ひ、姫がどうしてここに……?」
「いえ、その、あの……」
大姫はどうしてか、言葉を詰まらせてから、
「義高さまの姿がお見えなにならないと、御所で騒ぎになっていたものですから……」
「あ……」
そういえば、勢いで出てきたものだから行き先を告げるのをすっかり忘れていた。
「早く、御所に戻らねば!」
皆にいらぬ心配させてしまう。慌てて海に背を向ける義高だったが、
「あ、あの!」
またどうしてか、姫がその裾を勢い良く掴んで離さない。
「姫……?」
「……」
問うても、姫は答えない。その代わりなのか、裾を掴み無言のまま、汚れるのも構わずに砂浜へと座りこんでしまう。帰らなければという気持ちはあったが、姫の小さな手を払いのけてまで戻るわけにもいかず、義高もその場へと腰を下ろす。
当然のように訪れる、重い沈黙。先刻までは気持ちの良かった潮の音が、急に耳障りなものとなって、頭の中で響む。どうしたものか――義高が途方にくれていると、姫の方が先に、口を開いた。
「……昼間は、申し訳ございませんでした」
顔は海の方へと向けられたままだったが、姫の口から紡がれたのは、確かに謝罪の言葉であった。しかも今までのように感情の希薄な声音ではなく、はっきりと後悔の念が滲んでいるように思える。
「あのようなことになるとは思ってもみなかったのです。ただ、少しやり過ぎたと申しましょうか……」
姫の目線が、海から砂浜、砂浜から自分のつま先へと徐々に移っていく。いつもはきつく義高を見据えるその瞳も、夕陽の朱のせいか少し潤んでいるように見えた。
「……俺は気にしていませんよ、姫」
本当に反省しているらしい。それが解ると、胸のわだかまりは義高の中から消えていく。
「元はと言えば俺が悪いのです」
「そんなことは……」
「いえ。誰であっても、気に入らぬ相手に言い寄られれば、邪険にされても致し方のないこと。むしろ、いきなり現れた婿に付きまとわれた姫様こそ、災難と言うべきで――」
「それは違います!」
割って入った大姫の強い声が、静かだった浜辺の空気を震わせる。また、今までにない彼女の声を聞かせられ、呆気に取られる義高。対する大姫も、信じられないという風に目を見開いて、
「いえその、義高さまのことはともかく、海へのお誘いは、別に嫌ではないと……」
消え入りそうな言葉を、何とか繋ぐ。
やはり今の姫はおかしい。昼間とは、いや、今までの姫とはまるで別人のようだ。注ぐ夕陽の熱に溶かされてしまったのか、冬を纏ったような平素の雰囲気が微塵も感じられない。今の姫なら、少しはまともに話が出来るような気がする。
「俺はともかく、海はお好きなのですね」
「……はい。海は、ずっと」
下がっていた姫の視線が、義高の言葉に導かれるように海へと向かう。揺れる海原を見詰める姫の横顔は、素直に見惚れてしまうほど綺麗で、憂いを帯びた黒曜の瞳がその美しさをさらに引き立てていた。とても、自分より年下の少女とは思えないくらいに。
「ずっと、こうして海を見ていられれば良かったのに……」
大姫の眼が、わずかに上を向く。姫は海の先の、ずっと遠くを見ていた。それが何処なのか義高は知る由もない。ただ、単に伊豆での楽しかった頃に思いを馳せている、という風ではないように思えた。彼女が見ているのは、もっと悲しいものだ。何を見ているのだろう、あの遠い目は。
「義高さまは、どこか遠くへ行ってしまいたいとは思いませんか?」
まるで心を見透かしたような、不意の大姫の言葉に、義高の胸がどきりと音を立てる。
「船さえ手に入れれば、海へ出るのは容易でございましょう。もちろん、危険があるのは承知しております。ですが、人質として生きるよりはずっと心安らかなことではございませぬか?」
人質という言葉に、また一つ胸が跳ねた。鎌倉の人間でその言葉をはっきりと言ったのは、姫が初めてだ。
「……何とも楽しげなお話ですが」
動揺を気取られぬよう、笑顔を貼り付けて義高は答える。
「俺は父上を信じております。そして、父上の邪魔にならぬよう鎌倉で過ごすのが俺の使命。ですから、ここを出るつもりはございません」
「……さよう、ですか」
呟き、目を伏せた姫の顔に宵闇が覆いかぶさる。気付けば陽は殆ど暮れ、海は紅から漆黒へと色を変え始めている。冷えた潮風が、義高の頬を擦っていく。
「お引止めして申し訳ございません。戻りましょう、義高さま」
その日を境に、少しずつではあるものの――義高自身はどこか釈然としなかったが――大姫と義高の距離は縮まっていった。相変わらず笑顔を見せることは殆どないが邪険に扱われることも少なくなり、たまに海へ出かけるくらいには仲を深めつつあった。
そして義高が鎌倉へと来てから早三ヶ月。もっと夫婦らしくしないと、という政子によって同じ部屋で寝ることを決められ、さすがに大姫の猛反対が起こっていた七月のこと。義高の元へある一報が届いた。
木曾義仲の軍勢、平家を退け入京する、と。
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