《三章》




 義仲、入京す。

 その報告を東から受けた義高は、自分でも驚くぐらいに複雑な表情を浮かべた。

「義仲殿は倶利伽羅峠にて官軍を撃破し、そのまま破竹の勢いで都入りを果たしたようです。平家によって荒らされた都で義仲殿は旭(あさひ)将軍として迎えられ、大変な歓待を受けているとか」

「義仲様が、武家の棟梁になる日も近うございますね、若!」

 そう小太郎が喜びの声を上げても、義高の面持ちは変わらない。そして何とも言えない顔をしているのは、情報を持ってきた東も然りであった。

「東。まだ他に、伝える儀があろう」
「……さすが若様。お気付きでしたか」
「気付いて当然のことだ。頭の中が、極楽浄土でもない限りはな」
「それはもしかして、小太郎のことを言っているのでございますか……?」

 頭の中が極楽浄土な近侍に構わず、義高は話の続きを促す。

「警護役の武士がいなくなったため、都の治安が悪化しているようです。跋扈する暴徒の鎮圧が急務となりましょう。それに都落ちした平家も、木曾軍との全面対決を避けたため、戦力を温存してあるようです。西国で、平軍がどれ程力を蓄えられるか……」

 その先が義仲の運命を決する。故に東は言葉を濁し、義高もこれ以上話を続けることはしなかった。父のことを聞けば聞くほど、不安が積もっていく。それは人質である己が身に対してなのか。それとも上洛という一つの目的を果たした父に対してなのか。

 判別のつかない灰色の気持ちが、義高の中で渦巻き始める。



 寿永二年(1183年)七月。ちょうど夏も盛りを迎えた頃。

 上洛を果たした義仲は、東が話した通り、都の人達に「旭将軍」と呼ばれて出迎えられた。平家一門の専横に苦しめられてきた都の人達には、宿敵を打ち倒した義仲の姿はまさに、夜明けの太陽の如く映ったのだろう。

 しかしこの状態は長く続かない。西国へ落ち延びた平家とは他に、大きな二つの問題――食糧難と、それにともなう洛中の治安の悪化が、義仲の評判を一気に落とすことになる。

 この時期、都は大飢饉に見舞われていた。そこへ義仲率いる大軍が都に入ったため食糧難に拍車がかかり、民衆から大変な非難を受けることになったのである。

 さらに、食料の調達に困った木曾軍の兵士達が、略奪を行うという事態が起き始めた。当然、都に残された公卿達は義仲に略奪を止めさせるよう指示するが、義仲はそれを止めることが出来ない。木曾軍は京に至るまでに、諸国で独自に動いていた武士や、勝ち馬に乗ろうとした多くの者達を拾うことで軍勢を膨らませていたため、指揮系統が混乱してしまっていたのだ。食料もなく平家も西国に逃げてしまった今、木曾軍は義仲を大将として仰ぐ軍隊ではなく、ならず者の寄せ集めと成り下がっていた。

 他にも、都の生活に慣れた平家と対照的な義仲の粗暴な振る舞いは「田舎者」「木曾の山猿」などと嘲笑を呼び、それに抗うかの如く朝廷の政に口を挟んだことが、さらに公卿や後白河法皇の反発を招く。

 底なし沼のような悪循環の中で、旭将軍義仲は、既に落日の兆候を見せ始めていた。



 蓮の匂いがほのかに香る姫の部屋に、からからと軽い音が響く。音の主は、盤の上を転がるさいころだ。賽を振るい、そして示された数字に従って駒を進め勝利を目指す。簡単に言えば、すごろくとはそういう遊びである。

「よし、また俺の勝ちだな」

 腕を組んで、ふんぞり返って見せる義高。一方、対座している大姫は盤を睨みつけながら、ぷるぷると小刻みに震えている。

「いやぁ、どうやら賽のツキだけは、この義高にあるようですな」

 既に三連勝を収めて勝ち誇る義高に、姫の小さな顔がぷーっと膨れる。普段の凛とした姫からはかけ離れた年相応の様子が、どうにも可愛らしくてしょうがない。笑顔がない女子でも、可愛いものは可愛いものだ。義高はそれを、ここ鎌倉で初めて知った。

 義仲が上洛を果たしたことで、御所はにわかに騒がしくなった。しかし義高の生活は変わらない。相変わらず、姫との仲を深めるために勤しむ毎日。少なくとも、表面上はそう映るように努力していた。不安をかき消す意味もあったが、義高が普段通りに過ごせたのは、姫の変化のお陰でもあった。

「たまにでよろしければ、一緒に寝ることにいたします」

 義仲の話が伝えられた日の夜、姫は義高を部屋に入れ、とても不服そうに言った。

「母上のお言葉に従うだけのこと。義高さまをそのように認めた訳ではございませぬので」

 その母の勧めを頑なに拒んでいた姫に、一体どういう心境の変化があったのか、義高には知れない。しかし気を遣ってくれているということだけはしっかりと伝わっていた。

 義高はその気持ちが素直に嬉しかった。あれほど自分を嫌っていた姫が、一緒に海を見たあの日以来、少しずつ心を開き、そして自分のことを考えてくれるようにまでなってくれた。

 勿論、まだ距離はある。姫の笑顔を見たことは――お札をもらった時の、戦慄の笑みも含めて――数えるほどしかないし、彼女の大人びた、陰のある表情を見る度に、義高は二人を隔てる壁の存在を確かに感じる。しかしそれは時間が解決してくれよう。俺達は夫婦。これからずっと、死ぬまで一緒にいるのだ。時間はいくらでもある。 そして夫は、いかなる時も妻を不安にさせてはならないものだ。だからこれから先、少なくとも姫の前では変わらぬように振舞おうと、義高は心に決めたのである。

 その夫たる義高が今回、心の距離を縮めようと持ち出してきたのが、今しがた大姫が憎らしげに見詰めている双六盤だった。

「不愉快です……」

 盤から顔を上げた大姫が、あの氷柱のような視線で義高を見る。しかし彼女の夫は、そんな姫さえも可愛くて仕方がないのだから、効きようがない。義高は自分の顔に浮かんだ笑みを隠そうともしなかった。

「今日はたまたま運が良かったのだ。日を改めれば、また結果も変わろう」
「それでも、不愉快の極みでございます」

 両頬を瓜のように膨らませたまま、ぷいっとそっぽを向く姫。

「だいたい、女子を負かして悦に入るなどと、義高さまのご趣味はいささか問題が見受けられます」
「それは違うぞ姫。俺が笑っているのは、姫が可愛いからであって……」
「そういう物言いが出てくるところに、問題があると言っておるのですっ」

 恥ずかしいのか怒っているのか、それとも両方か。姫の顔が一気に赤くなる。

 気付けば、最近の二人の口調からは遠慮というものが消えていた。と言っても、元々姫の言動は容赦がなかったが――義高は思う。今は罵りの中にも、わずかな親愛の情がこもっている気がする。そう感じるのは自惚れだろうか?

「とにかく、本日はわたしにとっての厄日の様子。後日再戦を要求しますので、今日はどうか、お引取りを」
「いや、別に出て行かずとも……」
「今から修練に入りますので、どうかお引取りを」

 慇懃な口調と共に、久方ぶりの薙刀を突きつけられ、結局義高は部屋から閉め出される。風通しのよい室内ではあまり気にならなかったが、今日も外はうだるような暑さだ。じりじりとやかましい蝉の声に、背中が焼かれるような錯覚さえ覚える。

「やれやれ……」

 姫は一体何の修練をしようというのか。賽の目任せ、運任せのすごろくでは修練などしようがないように思えるが……まぁ姫の気の済むようにすればいい。

 大人しく自分の部屋へ帰ろうと、廊下を歩き出す義高。その後ろ姿に、珍しい声がかけられる。

「婿殿。姫とは随分、仲良くなったようだな」
「ご、御所様! 御台様も……!」

 声の主は他ならぬ頼朝だった。政子も一緒である。慌てて控えようとする義高を、頼朝はそのままでよいと制す。

「御台から、最近二人がとても良い感じだと聞いてな。少し様子を見に来たのだ」

 同じ御所の中にいても、政務に忙しい頼朝と会う機会は殆どない。話をするのは、たまにこうやって頼朝の方から出向いてきた時に限られる。

「あの子も、義高殿の愛情がやっと解ってきたみたいだわ。やはり、愛は偉大ですね」
「初めはどうなることかと思ったが、これで私達も一安心だよ」

 にこりと、子供のように無邪気な笑顔が頼朝の顔に浮かぶ。今日も頼朝は、春の小川のように穏やかだ。普段の様子を見ていると、彼が武将だということを忘れそうになる。

「それで、双六をしていたのか?」

 義高の抱えた盤を見て頼朝が尋ねる。

「はい。最近は、このようなことにも応じてくれるようになりましたので……」

 義高の言葉に、声を上げて笑う二人。

「わが娘ながら、苦労をかけるな」
「いえ、決してそのようなことは……」

「時に、義仲殿が京に入られたという話は聞いているな?」

 不意に変わった話題に、義高は一瞬、言葉を詰まらせる。頼朝が義高に、彼の父の話をするのはこれが初めてだった。義高は慎重に言葉を選ぶ。

「……はい。あちこちで噂になっているものですから」
「だろうな。これから私も忙しくなる」

 言葉とは裏腹に、頼朝の顔は涼しいままだ。まるで、このようなことなど折込済みだと言わんばかりに。義高に対して気を遣う素振りも見せなかった。あくまで当然のこととして、頼朝は言葉を続ける。

「義高も、気にすることはないぞ。何が起ころうと、そなたの立場が変わる訳ではないからな。そなたは大事な婿であり、そして大事な人質だ」
「……!」

 思いがけない頼朝の言葉に、顔がはっきりと強張る。今のは、俺の聞き違いではないだろうか? わずかな望みをこめて義高は政子の方を見るが、政子も彼と同じく、かなり驚いた面持ちでいる。

 聞き間違いなどではなかった。頼朝は政子も、部屋の中にいる姫にも聞こえるであろうこの場所で、義高を改めて「人質」と断じたのだ。

 婿など名目でしかない。如何なる事情があろうと、お前は木曾を脅す道具でしかないのだと、頼朝は隠すことなく言い切ったのだ。

 なぁ義高。頼朝が、耳元で囁く。

「人の一生とは分からぬものだ」

 盤の上に置かれていた賽を取り上げ、乾いた手の中で弄ぶ。

「賽の目は、いつどんな目を出すか知れぬ。だがいかなる目が出ようとも、生きている限りはそれを受け入れねばならない」

 頼朝の手を離れ、賽が盤の上で跳ねる。

「私は鎌倉の棟梁で、そしてお前は木曾の御曹司。これは変えられんのだ」

 それだけを言うと、頼朝は踵を返し奥へと戻っていく。慌てて追いかける政子と、取り残される義高。

 普段はやかましくてしょうがない蝉の合唱が、とても遠くから聞こえる。頭を振ると、紗がかかったように視界がぼやけた。多分、暑さのせいだ。鈍い足を引きずって、よろよろと義高は部屋へと戻る。



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