《四章》




 夕陽が差し始めた姫の部屋は、半刻前までの騒ぎが嘘のように、しんと静まり返っていた。奏でるようなひぐらしの鳴き声が、昼間の事件から随分時間が経ったことを義高に教えてくれる。伸びる御簾の影が、長い。

 やっとのことで寝付いた大姫の顔に、政子がそっと手を当てた。閉じられた目は、ずっと泣きじゃくっていたために赤く腫れ、痛々しい。こんなことは初めてだと語った母の横顔には、疲労よりも不安の色が濃く浮かんでいた。

「二人とも、もう大丈夫ですよ」

 傍らで神妙に親子を見守っていた義高と小太郎に、政子は微笑みかける。

「後は私に任せておいて下さい。二人とも、今日は大変だったのでしょう?」
「そう言われると……」

 刺客に襲われたことなど義高はすっかり忘れていた。思い出した途端、体にずんと疲れがのしかかる。あれから小太郎に人を呼ばせ、気が動転した姫を何とか部屋に運んだまではよかったが、彼女が本当に落ち着き現し心を取り戻すまでには、かなりの労力と時間を要した。

「この様子だと、姫は暫く寝たままでしょうから」

 瀑布の如く涙を流した後だ。多分、政子の言うことは正しい。それに、下手に顔を合わせてまた気が昂ぶっては困る。そう考えた義高は部屋を辞し、小太郎を先に戻らせると、自分はある人物の元へ向かうことにする。  昼の刺客に、義高は心当たりがあった。

「……おや、若様」

 その男は、見張りのための詰所に一人でいた。他の兵達は出払っているのか、誰も見当たらない。ひぐらしに混ざって、鈴虫の鳴き声も耳に届いてくる。夜がもう近い。

「姫様のご様子はよろしいので?」
「誰のせいで、あのようなことになったと思っている」

 東に話しかける義高の声音は、わずかに苛立ちが混ざるものの普段と変わりない。仮にも自分の命を狙った者と話しをしているというのに――驚くぐらい、義高は冷静だった。

「さすが若様。お気付きでしたか」

 いつか聞いた言葉を口にして、東は薄く笑う。正体を看破されたというのに、焦る様子はまったく見受けられない。口ぶりから薄々気付いてはいたが、やはり昼間の事は芝居であったか。

「答えろ。何故あのような真似をした。本気でなかったにしろ、事が露見すれば死罪は免れんぞ」
「若様を襲ったのはお遊びですよ。言ったでしょう、警告がてらと」

 姫が、何かを俺に伝えようとしたあの時。突如現れた東は確かに、それは言ってはならないことだと姫に警告した。

「姫様が仰ろうとしていたことは、若様が知ってはならないことでした。ですから邪魔させていただいたのです。若様をだしにすることが、あれほど効果のあることだとは思いませんでしたが。御台様の仰る通り、愛は偉大ですね」

 普段と変わらぬ風に笑う東。悪びれた様子は微塵もない。

「ならばもう一つ訊こう。俺の耳に入れたくない理由はなんだ? 俺はただの人質。鎌倉にいる以上、何も出来ないのはお前も解っているだろう?」
「……その問いに答えることが出来れば、私も気が楽なのですが」

 言葉を区切り、向かい合った東の顔が、いつになく真剣に映る。

「今は、鎌倉だ木曾だ頼朝だという話はお忘れ下さい。今の若様にとって一番大事なのは、木曾義高という人間の運命(さだめ)なのです」

「俺の、さだめ……?」
「はい。運命、宿命です。Destiny ――この甘美な響きが、若様に解ってもらえないのはとても残念ですが」

 無論、何を言っているのかは解らない。狸か狐を相手にして、見事に化かされているような気分だ。昼間もそうだったが、東と話しているとたまに要領を得ない時がある。

「大丈夫ですよ。じきに知る時が来ます。姫様が、若様に何を伝えようとしたかを。そして若様が今、束の間の奇跡の中にいるということも」

 これも一度、言ってみたかったんですよ。困惑する相手を尻目に、一人満足気に去ろうとする東を、義高は慌てて呼び止める。

「待て、まだ話は終っていないぞ!」

 しかし振り向くことなく、小太郎に射られた筈の腕をひらひらと揺らしながら、東は御所の中へと入っていく。

 やはりあの男は理解し難い。尻から尾が出ていても、自然すぎてすぐには気付くまい。後ろ姿を見送りながら、義高は深くため息をつく。



 姫の体調は、すぐには良くならなかった。義高や小太郎が見舞いに行っても女房達にも姫様は今誰ともお会いしたくないと申されております、と追い返され、詳しい容態を知れないまま訪れた、三日目の朝。まだ日が昇りきる前。部屋が少しずつ、明るくなり始めた頃のことである。

 突然、義高は目を覚ました。いつも見る悪夢のせいではない。何か、得体の知れぬ気配がすぐ隣からしたためだった。

「何奴!」

 殆ど勢いのまま、弾かれるように隣の気配へと手を伸ばす義高。その無遠慮に突き出された手の平に、予想外の柔らかな感触が返ってくる。

「あ、あの、義高さま……?」

 いきなり体を掴まれ――どこを掴まれたかは察して知るべしだ――目覚めた大姫と義高の視線が、一つの布団の中で絡み合う。

「あ、あれ……?」

 さっきまでの勢いはどこへやら。柔らかな感触を掴んだまま義高は固まってしまう。おかしい。確かに俺は昨日、一人寂しく床に就いた筈なのに、どうして姫がここに? 何ゆえ同衾状態に? もしや御台様の仕業か? 確かにあの人ならやりかねない――冷や汗を流しながら悩む義高に、姫は小さく笑いかける。

「申し訳ございません。実は昨夜、お話したいことがあって参ったのですが、義高さまは既にお休みになられていて、それで、つい……」
「そ、そうか。ついか……」

 ついなら仕方ない。この手の粗相も、ついなのだから仕方がない。そういうことにしておこう。別段、怒っている訳でもなさそうだし……何事もなかったかのように手を引っ込めて、義高は上半身も起こす。

「そ、それで話というのは?」

 促され、さらりと衣を擦らしながら大姫も体を起こす。髪が一房、肩から流れ落ち、はだけた寝間着の胸元を薄い影が彩る。

「実は一つ、お尋ねしたき儀がありまして、その……」

 白く細い指が、恐る恐る義高の手に触れた。布団に包まれていたせいか、何時もより濃く甘い姫の香りが、寝起きの義高を淡く震わせる。

「わたしは、義高さまのお傍にいても、よろしいのでしょうか……?」
「……先日のことを、気にしているのか」

 無言で、姫は頷く。

「わたしのせいで、義高さまがあのようなことに……」

 ついさっき、笑顔を浮かべたばかりの顔が悲しみに沈む。東の言った通り、姫が言おうとしたことが今回の事件の引き金になっていることは間違いないようだ。それに姫自身も、伝えようとした事柄に、何か問題があるのを自覚しているように見える。

 この際、あの刺客は東だったと打ち明けてしまおうか。義高は一瞬悩む。しかし東の腹中が掴めない以上、迂闊なことをしては姫を危険に晒す恐れがある。あの男はどこか得体が知れない。いたずらに向こうを刺激するような真似は控えるべきだ。

 それに、姫が欲しているのはそんな言葉ではない。女心に聡いとはとても言えない義高だったが、自分が今すべきことだけははっきりと見えている。

「そのようなことを気にする必要はない」

 向かい合う華奢な体を、義高は抱き寄せる。逃れようと思えば逃れられる程の力で、撫子の花を扱うように、優しく。しかし姫は動かず、義高にされるまま体を預けている。

「言えぬことがあろうが、俺は構わん」
「義高さま……」

 さらに濃くなった蜜の香りが、腕の力をわずかに強くする。

「ずっと俺の傍にいてくれ。姫は、俺の妻なのだから」

 腕の中で、姫の体が小さく震えた。

「ありがとうございます……義高さま……」

 薄く色づいた唇が、義高の名を愛しげに紡ぎ、濡れた瞳が、優しく笑みを浮かべる義高を映す。真っ直ぐに、彼だけを映す強い眼差し。それは初めて姫と会った時の、あの苛烈なまでの視線を思い出させる。

 姫は俺を受け入れてくれた。けれど、姫の俺を見る目はあの時と同じだ。姫は初めて会った時から、芯の部分では何も変わっていないのだ。ならば何故、あれほどまでに俺を拒んだのだろうか? それもまた、姫が俺に伝えようとしていたことと何か関係があるのだろうか?

「さ、もう一眠りしよう。朝餉までには、まだ時間があるだろうから……」

 頷く姫と共に、義高はもう一度布団の中に入る。疑問はあるが、とりあえず今はこれでいい。解らぬことがあるのも、伝えられぬことがあるのも、夫婦なれば当たり前のことだ。東の言う通り、いずれ全てが明らかになるならそれで構わない。その時も、今と同じように、姫が隣にいてくれるのならば。

 夜明けが近づき、暗闇が乳白色に照らされてゆく中。義高と大姫は、揃って眠りにつく。




 そこで義高は夢を見る。いつも見る、暗闇に包まれた夢ではない。由比ヶ浜の白砂を空に敷き詰めたような、真っ白な夢だ。

 目の前には大姫がいた。幼いながらも可憐で美しい、義高の妻だ。しかしどうも様子がおかしい。

「よしたかさま! よしたかさま!」

 聴いたことのないような丸い声を上げながら、姫が勢いよく飛びついてくる。受け止めきれず、姫ごと後ろへ倒れる義高。それが面白かったのか、きゃー! と無邪気な声が姫から零れる。

 濡れ羽色の長い髪に煌びやかな衣。幼いながらも可憐で美しい、見慣れた姫の姿だ。衣香まで同じである。しかし今、義高にのしかかって歓声を上げている姫は、彼が知っている姫とはまったくの正反対の様相だった。最早、別人と言ってもいい。

「よしたかさま、だーいすき! 姫、みらいえーごー、よしたかさまの妻でいることをおちかいもうしあげます!」

 頭痛がしてきた。違う、姫はこんなことは言わない。口が裂けても、こんな可愛らしく抱き締めたくなるような言い方はしてくれない。頭を下げて金子を山ほど積んで平家を討ち果たしたとしても、こんなことは言ってくれない。まだ姫と出会って一年も経っていないが、それぐらいのことは義高にだって分かる。

 なのに、義高は不思議な感覚に囚われていた。確かに彼はこの姫を知らない。けれど、この姫を知っている自分も、何処かにいる。

 何も飾ることなく、何の趣もない、幼い言葉。しかし誰よりも純粋に自分を欲してくれたこの少女を、自分の知らない木曽義高が、確かに知っているのだ。

 知らない筈なのに、知っている。この奇妙な感覚を抱えたまま、義高は目覚めを迎える。黒い夢とは違い、仔細を忘れることもなく。そして、不吉な声が現れることもなく。





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