《二頁》
やがて夏が終わり、訪れる秋。由比ヶ浜で泳ぐ子供達もいなくなった頃には、大姫はすっかり、義高にべったりになっていた。
「わたしは義高さまの妻ですから。夫婦とは、常に共に一緒にいるものです」
と言って、片時も傍から離れない。
義高さま、水菓子(果物)を一緒に頂きましょう? わたしが食べさせて差し上げます。
義高さま、また遠駆けに連れて行って下さいませ。今度は山のほうで、紅葉を楽しみましょう?
この様に、とかく二言目には義高義高で、春頃の姫様とは別人なのでは? と女房達が噂するほどである。同時に誰かが、しっかりと御台様の御血が流れていらっしゃる、と言えば皆が頷いた。確かに傍から見た姫は、愛する夫を独占するため、いささか躍起になり過ぎているようにも見えた。
「姫様は最近、若にくっ付きすぎではございませんでしょうか!? 男女七歳にして席を同じくせず、という言葉が世の中には――」
そう、小太郎が抗議の声を上げた時も、
「小太郎こそ、近侍という立場を利用して、普段から義高さまのお傍に侍り過ぎです! 東、摘み出して下さい」
「あーすみませんね小太郎殿。私も宮仕えなもんで……どっこらせっと」
「あ、東殿! このままでは若が、あの妲己めの毒牙に! 若、小太郎はいつでも若のことを――!」
と、問答無用でつまみ出される始末である。
大姫はとにかく義高の気を自分へ引こうとしていた。それは彼に対する愛情からくるところも無論、あっただろう。しかしそれにしても度が過ぎるくらい、姫は一寸の間も惜しんで、義高との時間を求めた。
求められる義高も不思議に思わぬ訳ではない。考えても詮無きことと割り切っていても、ふとした時に、蓋をした筈の疑念は鎌首をもたげ彼のの心に影を差す。白い夢の姫も気になる。
しかしその影をもすぐに取り払ってしまう程に、姫の心は真摯であり、真っ直ぐな愛情に満ち溢れていた。もし父が芳しくない状況にあると東から聞かされていなければ、義高は心の底から、幸せな日々を送っていたことだろう。
冬の戸羽口にさしかかり、木々も紅衣を脱ぎ始めた十一月の末。かつて旭将軍と呼ばれた義仲は厳しい時期に直面していた。
十月の平家討伐で、平家水軍に大敗し、これにより京での居場所を完全に失った義仲と――勝利だけでのし上がってきた彼にとって、一度の敗戦はあまりに大きすぎた――彼を疎む公卿達との対立は表面化。公卿達は彼を追い出すため、公然と鎌倉側に近付き、これによって鎌倉と木曾との対立も再燃。義仲はまさに、四面楚歌というに相応しい状況に追い込まれていた。
この状況を打開するため、義仲は博打に近い一手に出る。彼を追い出すために頼朝と通じ、武装化を図っていた後白河法皇を法住寺合戦にて破り、捕縛してしまったのである。結果、法皇に自らを征夷大将軍、頼朝を朝敵と認めさせ、一応の正当性を確保するに至るも、これは鎌倉側に対して攻撃の口実を与えてしまうことでもあった。
雌雄を決するため。後に英雄と呼ばれる源義経を中心とした追討軍六万が、鎌倉を進発しようとしていた。
※
「よしたかさま、よしたかさま!」
白い夢は、黒い夢の合間を縫うように義高の眠りに訪れていた。現の姫と、背丈も容姿も瓜二つ。されども振る舞いはまるで正反対な夢の姫。純粋無垢、天真爛漫、天衣無縫、そんな言葉がぴたりと合う姫と、ただ戯れるだけの幸せな夢。その始まりはだいたい、姫にのしかかられているところから始まる。
「今日はね、ひいな(人形)遊びしましょ! 二人でひいな遊びしましょ!」
白陶の空を背に、両手両足をばたつかせながら、義高にお願いをしてくる姫。見た目は同じでも、年相応に振舞われるとこうも稚なく見えるものか。何度見れども慣れないその落差に義高は苦笑する。
それにしても、ひいな遊びか……思えば、姫がひいな遊びをしているところを、義高は見た記憶がない。あの年頃なら誰しもがする遊びだと思うのだが、年不相応なあの姫に、ひいな遊びは少し幼稚に見えるのかもしれない。
いずれにせよ、目の前の姫様はその幼稚な遊びを御所望だ。男の義高はいささか気恥ずかしく思うところもあったが、どうせここは夢の中。誰が見ている訳でもない。へそを曲げられる前に、付き合ってやるとしよう。
「解った。解ったから早く、退いてくれ。退かないと遊べないぞ?」
はーい! と元気な返事が耳元で響き、飛び退いた姫は、すぐに二体のひいなを持って義高の前に戻ってくる。
「はい、よしたかさまはこれ!」
義高に渡されたのは、男のひいな。姫の持っているのも、男のひいな。どちらも鎧を纏い、手には刀を持ち、なかなか厳つい表情をしている。ひいな遊びは普通、男女一対でやるものだが、まさか姫にはそういう嗜みが……頭の中があらぬ妄想を萌芽させたところで、いきなり姫が、人形を振りかざして声を上げる。
「ゆくぞ平家のこっぱむしゃども! 源家のちからをおもいしるがいい!」
そして、とりゃー! と襲い掛かってくる姫の人形。ああ、そういうことか。一瞬で義高はこの遊びの意図を心得る。源氏の自分が言うのもなんだが、いかにも辛酸を舐めた源家らしい、業の深い遊びである。この姫には、もっと女童らしい遊びを教える必要がありそうだ。さっさと終わらせて、姫には別の遊びを勧めることにしよう。
義高は適当に、とりゃー、と自分のひいなを姫のひいなにぶつけると、適当に、ぎゃー、と悲鳴を叫ばせて、人形をぼとりと床に落とす。
「うぅ、この私が源家如きに敗れるとは……あな憎し、あな憎し……」
恨み言を呟きながら、平家の汚名を着せられたひいなは、がくりと事切れる。これで満足だろうと姫を見ると、
「だめ! 平家は源家のしゅくてきだから、かんたんたおされちゃだめなの!」
いたくご立腹の様子である。誰だ、こんな面倒臭い遊びを俺のあどけない姫に吹き込んだのは。と言っても、思いつくのは一人しかいない。東だ。こんな妙なことを吹き込むのは東しかいない。あいつめ、今日こそ化けの皮を剥がして狸汁にしてくれる!
「若と姫様は、相変わらず仲がよろしいですね」
唐突に、小太郎が目の前に現れる。夢の中だ、こういうこともあろう。しかし白い夢の中に姫以外が出てくるのは初めてのことであった。
「小太郎、東は何処だ?」
特に何も考えず、義高は小太郎に東の居場所を尋ねる。しかし訊かれた小太郎は、
「あずまとは……一体、誰のことでございますか?」
不思議そうに、首を傾げる。
「そのような名前の方は、御所にはおられませんよ」
小太郎のあどけない声が、義高に届くのと同時に。
白い夢が、わずかにくすみ、灰色となる。
※
冬が深みを増してゆく内に年が明け、義高は鎌倉で寿永三年(1184年)を迎える。
この頃から御所では徹底した情報統制が敷かれ、外の情報は一切、義高の耳には入らないようになっていた。ただ、薄々は感じている。おそらく今、自分の父の身が危うくなっているだろうということを。
だから、なのだろうか。これほど姫が自分の傍にいてくれるのは。菊花の香が薫る部屋の中から、降りしきる雪を見詰めつつ、義高は思う。木曾ほどではないにせよ、やはり冬となれば鎌倉も大いに冷え込む。冷え込むが、義高の体は暖かかった。
「積もれば、良いですね」
「ああ……そしたら削り氷が、山ほど食べられるな……」
横に、火鉢。前に、抱き寄せた姫。二つの熱を置いた義高は、身も心も満たされていた。
「こんな寒い時に削り氷などを召し上がられては、お体に障ります」
「そうだな……やはり駄目か……」
あまりの心地よさに一瞬、眠気に襲われるが、義高は頭を軽く振って睡魔を追い払う。
寝てもどうせ、うなされるだけのこと。あんなものに遭うのは、一日に一度、夜に眠る時だけ十分だ。
冬に入って、義高はうなされることが多くなっていた。以前までは週に一度程だった件の夢と声が、最近はほぼ毎日のように彼の眠りを妨げている。殺されたという感覚だけが残る奇妙な夢と、薄気味悪い声。それが何を意味しているのか、義高は未だ見当もついていない。もう一人の姫と会える、あの白い夢を見ている間だけが、彼の安らいで眠れる時だった。
「若様。御所様がお呼びです」
音もなく現れた東が、雪景色の前に立つ。
「御所様が……? 解った。すぐに参ろう」
わざわざ呼びつけるとは、珍しいこともあるものだ。特に深く考えずに、立ち上がる義高。その手が、僅かに引かれる。
「義高さま……」
「案ずるな。すぐ、戻ってくる」
大姫に一つ笑いかけ、頼朝のいる大御所へ移動する義高。その後ろから、東が小さく呟く。
「これから話すことは、私の独り言です」
「……聞こえんな」
では、そのまま。強張った義高の背に、東は感情なく告げる。
「どうか、御覚悟を」
「……」
その言葉の指す意味を、義高はすぐ、頼朝の口から知ることになる。
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