《五章》




 頼朝は一言、義高に告げた。

 お前の父は此方の軍に敗れ、死んだ。

 口振りは相も変わらず静かで、霜の降りた草原のようであった。

 一緒にいてくれようとした姫も小太郎も追い返し、義高は一人、久し振りに静かになった部屋の中央に座す。別に二人が鬱陶しかった訳ではない。ただ、泣き顔を見られたくなかっただけだ。いくら最悪の事態を覚悟していたと言っても、父が死ねばきっと、泣いてしまうだろうと義高は思っていた。だからこうやって、一人で薄暗く冷える部屋にいる。

 しかし、一人でいる冬の部屋はこれほど侘しいものだったろうか。まるで深い枯れ井戸の底に置いていかれたような気分を、義高は味わう。いかに姫や小太郎が自分の周りを彩ってくれていたか。それを知り思わず顔が綻ぶが、だからこそ二人の優しさに甘える訳にはいかない。この悲しみは、木曾義仲の息子としてきちんと一人で受け止めなければならない。二人に不安な姿を見せる訳にはいかない。

 でも、いくら待てども待てども、涙は一滴も流れてこない。あの壮健だった父を失い、悲しくてしょうがないのに。冬の寒さで涙が凍りついてしまったのか。それとも、枯れ井戸なのは己が眼だったのか。いずれにせよ義高の目は、閉じた口と同じく押し黙ったままだった。

 結局、僅かも袖を濡らすことなく、義高は自分の部屋を後にする。このまま虚空と睨み合いをしていても仕方がない。心配してくれているであろう二人に顔を見せるため、義高は姫の部屋の訪れる。

「義高さま、もう、よろしいのですか……?」

 しかし、義高を迎えたのは大姫だけだった。小太郎の姿はない。

「あいつは、何処へ?」
「義高さまが悲しみに耐えておられるのに、自分の情けない姿は見せられませんと、外へ……」

 えぐえぐと女のように泣く小太郎の姿が、脳裏に易々と描かれる。そんな情に厚い小太郎だからこそ義高は近くに置いているのだが、やはり主の前で涙する姿を見せるのは、恥だと思うのだろう。恥ずべきは恐らく、親が死んでも平素なままの、彼の主だというのに。

「なぁ、姫」

 自嘲気味に笑いながら、義高は姫を呼ぶ。

「何故だか解らんが、泣けなかった。どうしてだろうな」

 そんな彼を、姫は悲しげに見ると、

「きっと……もう十分に泣いたからだと思います」

 ぽつりとそう言った。

「ずっとずっと昔に、義高さまは泣き尽くしたのです。ですからもう、義高さまは泣かなくてもよいのです……」

 それが何時だとは、義高は訊くことが出来なかった。彼女は義高を見ていなかった。瞳は彼を映していたが、彼女はまた、ずっと遠くを見ていた。そんな姫を見ているのが辛くて、義高は視線を床に落とす。


 木曾義仲が敗死したのは、一月、近江国粟津での戦いの最中だった。既に宇治川、瀬田の戦いで惨敗し木曾軍総崩れの中、射かけられた矢が、丁度彼の頭を射抜いたという。 この瞬間、義高の立場は人質から、かつての頼朝と同じものへと変わってしまう。敗れし者の息子という、非常に無力な立場である。

 かつて頼朝の父である義朝は、平治の乱で平清盛に敗れ、死した。しかし息子である頼朝は、平清盛が継母の助命嘆願を聞き入れたため、配流され生き残った。この清盛の迂闊な決断こそが今、平家滅亡へ大いに繋がっている。ならば、同じ境遇となった義高を頼朝がどうするのか。そんなことは火を見るより明らかだ――御所内で不穏な噂が囁かれるようになるのに、そう時間はかからなかった。



 白い夢は徐々に、無垢な雪の白さを失っていった。初めは僅かだったが、次第に雪は踏みにじられ、泥が混ざり、溶け始めると共に灰の色を濃くしていった。

 内容も徐々に鬱々としたものとなっていく。父の上洛に始まる不安から、京における治安回復の失敗。平家水軍に敗北し、鎌倉側との対立が再燃。ついには頼朝と通じていた法皇を捕縛するという暴挙に出る。まるで鎌倉に来てからの数カ月をなぞるかのように、夢は続いた。

 回数を重ねる度に、夢の中の義高は、現の自分以上の不安に駆られるようになっていった。それに伴って、初めの頃は姫と遊ぶことが出来たこの夢も、今では憔悴していくもう一人の自分と、彼を幼いながらも支えようとする姫を、遠くから見守るだけのものとなっていた。

 そして今、夢の自分はずっと泣いていた。粟津での父の死を、頼朝から知らされたためである。ついに一滴の涙も流さなかった、現の自分の分も引き受けたかのように、夢の義高は延々と嗚咽を漏らし、震えていた。

 ――ずっとずっと昔に、義高さまは泣き尽くしたのです。

 現の姫の言葉が、胸に蘇る。

 そして隣では、あの姫も一緒にむせび泣いていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、よしたかさま……」

 事情など解る由もない幼い姫。でも、悲しかったから泣いていた。愛する人が悲しいから、姫も悲しくなって泣いている。

 二人はまるで、互いの心を映す鏡のようであった。



 気付けば、鎌倉は四月を迎えていた。既に桜も散り、最近は汗ばむ陽気が、冬を越えた武士達の顔を明るくしている。

 一年か。義高は思う。人質として御所を始めて訪れた日から、一年と少し。父が死んでから、三ヶ月と少し。よくここまで生きられたものだ。本当に頼朝は、俺をどうするつもりなのだろうか。日和のせいか、霞がかかったようにぼやけた頭の中で、他人事のように義高は考える。黄色い蝶が目の前を、ひらひらとたゆたうように飛んでいる。

 父の死を報せられて以来、頼朝とはまともに話をしていない。と言っても別に避けている訳ではなく、未だ続く平家との戦いに頼朝が忙殺されているため、単に顔を合わす機会がなかったのだ。故に、彼が今どのような心持なのかを知る術はない。

 代わりと言っては妙だが、政子は毎日のように、義高の様子を見に来ていた。何か不自由していないか、何か欲しいものはないか、何かしたいことはないか。毎日のように、義高に尋ねるのだ。そして義高が静かに首を横に振ると、平然を装いつつも、影の差した瞳をそのままに政子は部屋を後にする。

 解りやすい御仁だ。気を使ってくれる政子を見る度に、義高は心が暖かくなる。だからこそ好ましいのだけど。でも、もう少し表情を隠す練習をした方が良いな、と思う。しかしそんな御台様は嫌だな、とも思う。やはりあのお方には、優しく自分に素直なままでいて欲しい。

「うっ……ううっ……」

 横でめそめそと泣く近侍も、同じ心境のようであった。

「小太郎。御台様の優しさが目にしみたのは解ったから、もう泣くのは止せ」
「申し訳ありません……ですが、あのように気遣われるとどうしても……」

 鼻水をずるずると鳴らしながら、涙を拭う小太郎。本人は主の前で泣くまいと努力しているようだが、生来の涙脆さはいかんともし難いらしい。

「まったく。そんな様子では、俺の葬儀は任せられんな」
「縁起でもないことを仰らないで下さい! 若は処断などされません!」

 張り上げた大声が、部屋の中で虚しく響く。楽観的だな。言い返すのは簡単だったが、これ以上小太郎の顔をぐちゃぐちゃにしても仕方がないので、義高は黙っておくことにする。

 しかし、そんな道理はない。御所の皆が囁く通り、政子が心の中で思っている通り、頼朝が決意している通り、俺は殺される。

 確信めいたものが彼の心にはあった。そして、義高は死を冷静に受け入れているつもりでいた。別に生きることを諦めた訳ではない。人質としての義務を感じている訳でもない。敢えて言うならば、以前東が口にした運命という言葉が相応しい。これが、木曽義仲の嫡男として生まれた己の宿命なのだ。

「……そういえば、今日は姫様の姿がお見えになりませんが……」
「さぁ、どうしたのだろうな」

 今日は一緒に朝餉をとって以来、姫の姿は見ていない。秋口から一緒にいることが殆どだったので妙ではあったが、誰だって一人でいたい時はある。今の状態で姫に会えば、きっとまたいらぬ気を遣わせるだろうし。義高は無理に姫を探そうとは思わなかった。

「な、なら若。たまには二人で、遠駆けに参りませんか? こんな時だからこそ、主君と家臣、親睦を深める必要があると思うのです!」
「お前と今更、どんな親睦を深めるというのだ。乳飲み子だった頃からの付き合いではないか」
「まぁそう仰らないで、行きましょう若!」

 結局、小太郎に押し切られるままに義高は遠駆けへ出る。今日は姫がいないので、行く場所は適当だ。小太郎と轡(くつわ)を並べて、気の向くまま風の向くままに春の鎌倉を駆けて行く。

 しかしどうにも思考が晴れない。萌える葉の緑が、美しく映える季節なのに。義高には新緑もくすんで見える。鉛色の雪雲から開放された青い空も。凍てつく冷たさから開放されたせせらぎも。義高の目には留まらない。取り囲む全ての色が生を失ってしまったように、彼には思えていた。

 義高は手綱を引いて馬を止める。駄目だ。こんな気弱になっていては。自らの宿命を、きちんと受け止めなければ。

「小太郎。ついて来い」
「ちょっ、ちょっと! どちらに行かれるのですか!」

 暖かくなった風を切りながら、義高は馬を御所近くの林へと向かわせる。気分を変えたかった。木々に囲まれて鳥の声でも聞けば、少しは心も落ち着くかもしれない。そんな簡単に気が紛れれば、誰も苦労はすまい。呟くもう一人の自分を黙殺しながら、義高は馬を走らせる。

 しかし林には先客がいた。木に結ばれ呑気に草を食んでいる馬が、そのことを告げている。しかもその馬が纏った絢爛な馬具は、御丁寧に乗り手までも義高達に教えてくれる。間違えようがない。先客は、頼朝だ。

「若、帰りましょう」

 頼朝の近くになど、一刹那もいたくない。そう言わんばかりに嫌悪感を滲ませて、小太郎はこの場を離れようとする。しかし義高は離れるどころか、逆に馬を下り、招かれるように林の中へと足を踏み入れていく。

「姫の声だ。二人が、話をしている」

 風が吹きぬけ、梢がざわめく中。確かに義高の耳には、姫の声が届いていた。聴くべきではないのだろう。解っていても、小太郎に止められても、義高の足は進む。

 やがて、はっきりと二人の話す言葉が聞こえてくる。

「――父上は、どうあっても義高さまを討つと、仰られるのですね」
「ああ。無論だ」

 そこで、義高の足が止まった。ああ、やはりな。

 存外簡単に、頼朝の心中を確かめることが出来た。歩みを進める必要性をあっさりとなくした心は、義高にそのまま踵を返させようとする。これ以上聞いていても、苦しくなるだけだ。

 しかし、澄んだ空気を震わせる姫の声が、再び義高の足を止めさせる。

「義高さまはもう鎌倉の人間。父上と義仲さまとの諍いなど、わたしには関係のないことです!」

 激する姫。大人びているとはいえ、まだ十にも満たない女子があれほど強く、物を言えるものなのか。父であり、ここ鎌倉で全ての生殺与奪を握る源家棟梁、源頼朝に対して。

「我が目の黒き内は、義高さまに指一本触れさせません!」

 不意に、視界がぼやけた。不思議に思い目を拭ってみて、初めて義高は気付く。

「例え父上と対することになろうとも、今度こそ義高さまをお守りしてみせます!」

 義高は泣いていた。父の死を聞かされた時も泣かなかった彼の眼から、とめどなく涙が溢れ出していた。

 林の奥からは、今だ姫の凛とした声が届き、調子が激しくなればなるほど、彼の涙も激しく流れる。泣きながら、義高は確信する。姫も泣いている。心の中で狂おしいほどに、泣きじゃくっている。

「若……逃げましょう」

 そっと肩に手をおき、小太郎が耳打ちしてくる。

「頼朝の意志は明らか。残念ながら、姫様にも止めることは出来ないでしょう。ならばせめて、あの気概に応えるべきです」
「……そう、かもな……」

 自らの死は、仕方のないものだと思っていた。宿命だと思っていた。しかし、それに甘んじればきっと姫は悲しむ。世の習いと言われても、きっと姫は俺のことを悲しんでくれる。夢の中の姫と、同じように。

「逃げるなら、今か」

 既に義仲の死から三ヶ月。逃げる機会が幾度もあった中で、義高達は依然、御所の中にあった。それが突然、姿を消すとは誰も思うまい。このまま日が暮れるのを待ち、夜陰に身を潜めて鎌倉を出れば、あるいは――、

「無理ですね」

 しかし、心中で燃え上がった意志を、背後からの声が一気に散らす。振り向けばそこには、突きつけられた刀の切っ先と、声の主である東の姿。

「東殿、何を……!?」

 予期せぬ事態に、困惑を露にする小太郎。それを庇うように、義高は前に立つ。こいつの神出鬼没ぶりには、もう慣れた。

「無理とは、どういうことだ」
「下手に動くのは下策と申したまでです。浅はかな考えに従えば、必ず悔いの残る結果となりましょう。今日はどうか、お戻りを」

 向けた太刀はそのままに、恭しく頭を垂れる東。諭しているのか脅しているのか、判断に苦しむ。

「……ならばお前は、自分の言葉に従えば悔いは残らぬと、そう言うのだな?」
「冷たい河原で首を撥ねられるよりは、きっと」

 義高の胸が、どくりと、嫌な音を立てる。



 くすんだ白い夢もまた、現と同じく四月を迎えていた。現実と変わらぬ春の陽気の中、父の死から少し立ち直ったかのように見えた義高のところへ、見たことのない程に厳しい表情をたたえた政子が訪ねてくる。神妙な顔つきになった義高に、政子は言った。

「御所様は、あなたを殺そうとしています」

 夢の義高も、父が死んで以降ある程度覚悟はしていたのだろう。顔色を失いながらも、頷いて返す。そんな義高に、

「義高殿、お逃げなさい」

 政子は思いもかけない言葉を投げかける。

「あなたが死ぬ必要などありません。血の繋がりはなくとも、あなたは大事なわたしの息子です。それにもう、義仲殿との戦は終わったのですから」

 しかし……と困惑する義高だったが、政子は有無を言わせない。既に政子は彼を逃がす 算段を整えており、居合わせた小太郎も、進んで義高の身代わりを買ってでた。

「若の逃げる時間を稼ぎます。若の振りをしてすごろくでもしていれば、昼間は何とかやり過ごせるかと」

 勿論、義高は無謀だと彼を止めようとするが、小太郎も頑として譲らない。

「もし止めるというのならば、この小太郎、今すぐ腹を掻っ捌いて、義仲様の元に参ります! 若のお役に立てない我が身に、何の意味がありましょう!」

 結局、二人の熱意に負けた義高は政子の計画に従うことにした。ただし、このことは姫には言わずに。真実を告げればきっと、姫を悲しませることになる。これは子供の姫に背負わせてはいけないことだ。それは三人共に同じ意見だった。

 決行を翌朝に控えたその宵の月は、夜空を穿つ見事な満月であった。

 御所から見る月もこれで見納めと、夜空を縁側で仰ぐ義高は、珍しく夜更かしをしていた。興奮と緊張で眠れないというのもあったが、何より彼は、隣で眠る姫の寝顔を見るのが辛かった。

 鎌倉に来てからずっと、同じ部屋で眠っていた二人。朝が来れば二人で起きて、二人一緒に挨拶を交わすのが、義高と大姫の日常だった。でも、明日の朝に目覚めた時にはもう、義高はいない。それが解った時、姫はどんな顔をするだろうか。考えずとも、義高には察しががつく。だからこそ何も知らされず、無邪気に寝息を立てる姫の顔を見るのが、義高にはどうしても耐え難かった。

 星散らばる濃い藍の空に、溜め息が昇っていく。今夜は小太郎の部屋で眠ろう。もう一度姫の顔を見てしまったら、きっと未練が残ってしまう。

 義高は意志を固める。しかし運命は、どこまでも彼に対して過酷であった。

「よしたかさま……? なにしてるの……?」

 ふらふらとおぼつかない足取りで廊下を歩いてきたのは、夜着姿の大姫である。

 部屋で寝ていたのでは? 義高が訊くと、

「目がさめたら、よしたかさまがいなかったから……」

 眠い目をこすりながら、当たり前のように姫は答える。事情を知らないとはいえ、その言葉が今の義高にとっては心苦しい。それでも何とか笑顔を作って、彼は姫の冷えてしまった手を取り、寝室へと連れて行く。

 俺は少しやることがあるから、もう眠るんだ。努めて優しく言ってやると、姫は素直に一人で布団に入り目を瞑る。いい子だ。夜に溶けてしまいそうな黒い髪を、そっと撫ぜる。これで本当に最後だ。もう触れることもない。言葉を交わすことも――、

「よしたかさま……」

 目を閉じたまま、姫が呟くように言う。

「姫を、おいていかないでね……」

 何も答えるべきではない。何を言っても、姫を傷付けることになる。そう解っていた筈なのに、

「……ああ」

 気付けば義高は口を開き、契りの言葉を紡いでいた。

「俺はずっと、ここにいるから」

 その言葉を聞いて安心したのか、姫はすぐ安らかな寝息を立て始める。何て、度し難い真似を。激しい後悔が義高を襲ったが、一度口にした言葉を取り消せる筈もなく、うなだれながら義高は部屋を後にする。

 そして翌朝。陽が顔を出し始めた頃。外へ出る女房達に匿われ、御所を脱出した義高は、そのまま用意されていた馬に乗り山中へと消えていった。

 夢はそこで終わる。漆黒の闇に飲み込まれて、唐突に。まるで蝋燭の火が消えたように、黒い夢の濁流に飲み込まれて終焉を迎えた。

 もう二度と、白い夢は――灰を経て、黒となった夢を見ることはないだろう。覚醒に向かう中で、義高は確信する。

 俺のもう一つの記憶は、ここに終りを告げたのだ。




次頁