《二頁》
東に止められ、御所へと戻ったあくる朝。姫は頼朝の命令で、近くの寺へと移されることとなった。頼朝曰く、平家の刺客が御所を襲撃する計画があるらしく、安全のため姫を避難させるとのことだった。
頼朝の行動を聞いた義高は、ついに時が来たことを悟る。姫を移したのは、いざ事に及ぼうとする際に騒がれると面倒だからだ。昨日の姫の剣幕を見ていれば妥当な処置である。おまけに、御所の警備の強化という名目で、見張りの数も平常より増加。これで義高が単身、御所から脱出することはほぼ不可能になった。
そこへ何時もの通り、政子が訪れてくる。だがその顔には、いつか見たような険しい表情が浮かんでいた。そして、義高に政子は告げる。
「御所様は、あなたを殺そうとしています」
何処かで聞いたことのある言葉だった。義高はすぐ、夢の中の政子が言った言葉と同じであることに気付く。眼前の政子の表情も、言葉も、義高は既に知っていたのだ。
その後も、話は夢とまったく同じように進む。政子が逃げる段取りを説明し、小太郎が時間稼ぎの身代わりを買って出る。寸分違わず、夢の通りに事は運んでいった。姫には、この事を告げないことで決まったのも、同じ。夢と違うのは、その姫が御所の中にいないことぐらいだ。
もっとも、結果の見えた宿命の前では、それは些細な誤差に過ぎない。
決行を翌朝に控えた夜。義高は一人、部屋の縁側から外を眺めていた。夢と同じ輝きを持った満月が煌々と光り、銀色の冴えた月影で義高を照らしている。今度こそ、御所から見る月も見納めか。感慨に耽る義高の元に、今日一日、姿を見せなかった男が現れる。
「今宵は、良い月ですね」
いつもと変わらぬ東の声音に、義高は少し救われたような気分になる。
「最後に見る月がこれとは、ついてますよ、若様は」
「……やはり、俺は死ぬのか」
「ええ。今日が、若様の命日です」
小さな音を立てて、義高の前に小刀が置かれる。
「前回、入間川で討たれたのが今日なので、今回も然りです。このまま行けば、御所を囲んでいる兵士達が雪崩込んできて終了、といったところですか」
東の言葉に導かれるように、義高の頭の中で、封じられていた最後の記憶が紐解かれていく。黒に塗りつぶされた夢の中身が、月影の下に晒され、義高の首筋を駆け抜けた。確かに俺は、この首を一度刎ねられた。そしてどういう訳かもう一度木曾義高として生まれ、また死を迎えようとしている。
「これは、お前の仕業なのか?」
「私はただ、天から遣わされた小間使い。左様な力はございません」
ご冗談を、と東はまた笑う。義高も、釣られて口の端を歪める。
「ただ、貴方の死を嘆く人が後世に多くいた。貴方の死が、満足のいくものになるよう願った人が多くいた。だから天が、歴史が変わらない範疇で貴方にもう一度死ぬ機会を与えた。それだけのことです。若様、実はそこそこの有名人なんですよ?」
そう言って、東は懐から一冊の本を取り出す。表紙にあるのは「しみづ物語」という題だ。
「清水冠者義高。若様のことを綴った物語です」
「俺のことが、竹取物語のように書かれているのか……?」
「ええ。九百年の時を経た後も語り継がれる、なかなか息の長い物語です。知名度は、源氏物語に比べれば落ちますが」
「おいおい。源氏の君と比べては、いくらなんでも俺が可哀想だろう?」
義高の笑う声が、高く響く。そういえば、声を上げて笑うのは久し振りだ。
「で、冷たい河原で斬首されては哀れだからと、持ってきたのがこれか」
東が差し出してきた小刀を受け取る。
「ええ。人に斬られるぐらいなら、自害する方が若様も気持ちがいいかと思いまして。ささ、私に構わず、ずばーっとやっちゃって下さい」
「そんな気楽に勧められて、腹を切る奴が何処にいるか!」
思わず大声で反論して、義高はまた高々と笑った。それは闇を払う篝火のように、明るく逞しい笑い声であった。まったく。義高は手にした小刀を懐に収める。これでは、死を宿命と受け入れ、粛々としていたさっきまでの自分が、馬鹿みたいではないか。
――いや、馬鹿だったのだ。義高の中から、鬱屈した気持ちが霧散していく。
「なぁ東」
「はい」
「姫は、俺が死んでからどうなったのだ?」
「心と体を病み、苦しみながら、二十歳の若さで亡くなりました」
淡々と紡がれた東の言葉に、義高は言葉を失う。あの溌剌として、皆に元気を振りまいていた姫が……。
「だから姫も、俺と同じようにもう一度生を受けたということか」
「ええ。ただし若様と違って、殆ど完全に、前回の記憶を引き継いだままです。それが若様を想い、生きて長く苦しんだせいなのかは計りかねますが」
時折見せていた、姫の遠い眼差しの意味がようやく解る。あれは義高を見ていない訳ではなかった。ただ、彼自身も忘れてしまっていた木曽義高のことを、遠い記憶に照らして見詰めていただけだったのだ。
「鎌倉にいては死んでしまうと解っていて、若様に伝えられなかったのは、さぞ辛いことだったと思います」
「……由比ヶ浜でのことか」
無言で東は頷く。
「ですが、歴史を変えてしまいかねない発言を、天の使者たる私が許すわけにはいかなかったのです。どうか、お許し下さい」
つまり、今この時点ではもう、義高の命運は何も変えようがないということである。
「……姫には、辛い思いをさせてしまったな」
腰掛けていた縁側から、義高は立ち上がる。腹は決まっていた。遅すぎると解っていても、彼女に償える時間は、もう僅かしか残っていないのだから。
「俺は行くぞ、東」
「若様、人の話を聞いてなかったんですか? 今一人で出ていけば、頼朝の兵に捕まるのは必至。また汚い花を咲かすことになりますよ?」
「御台様や小太郎の心遣いを無碍にするなど、出来る筈がなかろう。それに――」
それに、会わなければならない人がいる。二度の生を通じてずっと、俺を必要としてくれた彼女に、俺は死んでも会わなければならない。
「ずっと昔に、姫と大事な約束をしたのだ。それが果たせないのであれば、もう一度死ぬ甲斐もあるまい?」
「……やれやれ。まったく、暴れん坊な若様だ」
大儀そうに、頭をかく東。
「そう言うと思って、ちゃんと準備は整えてありますよ。そろそろ姫様も、小太郎殿の手引きで寺から脱出している頃合でしょうし」
これが最後のお勤めです。口笛を高々と吹き、何処からともなく馬を二頭呼び寄せる。内の一頭は、いつか見た白馬であった。天の使者というものは、なかなかに便利な特技を持っているらしい。
「御台様にお頼みして、門も開かせてあります。後は姫様が捕まっていないことを祈るだけです」
「……恩に着る、東」
「お礼は、若様が天に召されてからたっぷりとしてもらいますよ」
不敵な笑みを互いに浮かべた後、両人は馬を駆けさせ、そのまま門の外へと走り抜ける。背後から随分野太い声が聞こえてきたが、気に留める程ではない。この先にいくらでも、怒鳴り声を聞く機会はある。
「止まれぇ! 止まらねば射る!」
噂をすれば影と言う。行く先に立ちはだかったのは、御所周辺の警備に当たっていた弓兵達である。既に矢はつがえられ、矛先は義高の眉間に向けられているが、こんなところで立ち止まっていては、姫を取り戻すことなど出来はしない。
「悪いが、推し通る!」
二人揃って、太刀を抜き放つ。同時に、義高を目がけて無数の矢も放たれるが、正面の矢は全て、東が一刀の元に斬り払う。
「退いた退いた! 寄らば斬りますよ!」
二頭はそのまま速度を緩めることなく前方へと突進し、弓兵達を蜘蛛の子の如く散らばらせる。後方から再び矢が射かけられるが、今度は義高が刀を振るい、何とか弾き落とした。
「見事です、若様。世が世ならば、もっとその腕を振るえたかもしれませんね」
「武名などに興味はない。俺が欲しいのは、姫だけだ!」
「ふふ。義仲殿が聞けば、さぞお嘆きになりましょう!」
重なる八つの蹄の音が、夜の闇を蹂躙しその存在を誇示する。まさかこちらから打って出るとは夢にも思わなかったのだろう。虚を突かれた兵達は狼狽えて次々と遅れを取り、警戒網を破られていく。出来すぎだ。義高は苦笑する。
もしかすると、これは悲嘆に暮れた俺の見る、都合のいい夢なのかもしれない。否、夢でなければ、このようなことが起きる筈がない。だが例え胡蝶の夢であろうとも、俺は姫との契りを果たすだけだ!
やがて前方の細い道の向こうから、松明を持ち、列となった兵達が走ってくる。その先には、小さな影が二つ。走りやすいように男装した姫と、その手を必死に引く小太郎の姿があった。
「姫! 小太郎!」
馬上から叫ぶと、ぱっと二人の顔が綻ぶ。何とか間に合ったようだが、追っ手はすぐそこまで迫っている。一度捕らえられれば、無血で奪い返すのは不可能だ。
間に合うか……? 緊張に義高の顔が強張るが、隣を駆ける東は義高の心配を、即座に杞憂とする。
「こうすればいいんですよ!」
背負っていた弓を取り、馬上から次々に矢を放つ。その悉くが、先を行く追っ手の目の前に突き刺さり、見事に兵達を怯ませ気勢を殺ぐ。
「ひぃっ!」
思いがけない反撃に、追っ手の動きが止まった。今が好機と、義高は一気に馬を姫の元へと駆け寄らせ、
「姫!」
「義高さま!」
手を差し出し、華奢な男装の麗人を馬へと引っ張り上げる。
「約束を果たしに来た。一緒に行こう、姫」
「……はい、義高さま!」
「行くぞ!」
飛来する矢を避けるのに精一杯な兵達を尻目に、義高は馬首を翻し、馬を山へと駆け上がらせる。
「ちゃんと、迎えに来てくれたのですね」
揺れる義高の腕の中で、姫がにっこりと笑う。
「今度置いていかれたら、父上と刺し違えてでも、後を追おうと思っていましたのに」
「本当に待たせたな。すまん」
「良いのです。こうして共に、黄泉路を行けるのですから」
追っ手はどうやら、まだこちらの動きを補足しきれてないらしい。四つに減った蹄音が、背に乗せた主の黄泉平坂を、勢い良く駆け上がっていく。
「やれやれ、こんなものですかね……」
吸い込まれるように滑らかな動きで、東の太刀が鞘へと仕舞われる。目の前には東から峰を貰い、気絶した男達の無様な体がいくつも転がっている。いくら屈強な鎌倉の武士達といえども、人ならざる者を相手に勝てる道理は存在しないようであった。
「東殿、ご無事で!?」
身を潜めていた小太郎が、信じられないといった面持ちで近寄ってくる。無理もない。十人以上の相手を一人で捌いてしまうなど、とても人間業ではない。
「大丈夫ですよ。八代将軍になりきってしまえば、このくらい朝飯前のことです」
「はぁ……」
たまに東の言うが解らないのは、義高だけでなく、小太郎も同じことであった。
ちらちらと、遠くの方ではまだ松明が踊っている様子が窺える。しかしどの松明もてんで動きがばらばらで、とてもではないが、訓練された武士達が捜索に当たっているようには見えない。
「どうやら、買収に応じてくれた方達が上手くやってくれているようです。前々から秘密裏に、金子をばら撒いておいた甲斐がありました」
地獄の沙汰も金次第。いつの時代に来ても、これだけは変わらずだ。お陰で仕事がやりやすくて助かる。
「東殿。本当に、何とお礼を申し上げたらいいのか……」
深々と頭を下げる小太郎。義高の近侍である彼には、協力してもらうにあたって、だいたいの事情は話してある。勿論、この後に主が迎える運命のことも承知済みだ。本当は今すぐにでも大事な主の元へ駆けつけたいに違いない。しかし彼は、ただ黙って義高達が向かった山の方を見詰めるだけだ。若様は、良き人に恵まれた。
仕舞っておいた「しみづ物語」の本を東はおもむろに開く。そこにしたためられているのは、義高が夢で聴いた、あの言葉である。
――かくれかねたるよのなかの――おくれさきたつ物うさは――
――そのとか、いまよしたかに、つもりきて――
――いまをかきりとなりたまふ――さいこの事そ、いたはしき――
何も知らない義高には、この言葉はさぞ不吉な言葉に聞こえただろう。しかし本来は彼の境遇を嘆くこの言葉が、悪夢の感覚を残し続けたからこそ、義高は死を強く受け入れることが出来た。東はそう思っている。もし「声」が悪夢の忘却を許していれば、義高は現実に迫る死に怯え、本当に二の轍を踏んでしまったかもしれない。
若様は、よき想いにも恵まれた。東は再び本を懐へ収める。夜は深まり、もうじき子(ね)の刻も半ばを迎え、今日が終わろうとしている。
「では、私もそろそろお暇させていただきます」
礼をする東の体が、文字通り夜の闇に溶け込んでいく。さすがに小太郎もぎょっとした顔を見せたが、すぐに笑顔になると、頭を深々と下げて東を見送る。
「どうか、お元気で」
やがて東が完全に消えてしまうと、小太郎は一人で、御所へと歩き出した。
山中に入り追っ手が来ないことを確認すると、二人は馬を降りる。互いの手をしっかりと握り、草木が生い茂る獣道へと身を進めていくと、やがて僅かに開けた場所に出る。周りを藪で囲まれているし、ここならば邪魔が入ることもないだろう。
二人は隣り合って、腰を下ろす。手を大きく広げた梢が天井となって、月の光は届かない。自分達を探す、男達の喧騒もここまでは届かない。ここにあるのは義高と大姫の、二人の温もりだけであった。
「一つ、訊いても良いか?」
何でしょう? 小首を傾げる姫。
「一年前の姫は、どうしてあのような振る舞いを?」
小刀から太刀、太刀から薙刀、そして極めつけに、不能になる呪いを突き付けられた。他にも贈った歌の返歌が矢文で届いたりと、思い出せるだけでも随分悲惨な扱いを受けたものだ。
「あ、あれに関しては、きちんと謝ったではありませぬか」
やった当人も、罪悪感は持っているらしい。ばつが悪そうに義高から目を逸らす。
「解っている。ただ、理由が聞きたいだけだ」
「……あれは」
ぎゅっと、握る手の力が強くなる。
「わざわざ木曽から参られた婿殿を冷淡に扱えば、少しでも宿命が変わるかもしれない。そう考えたのです」
「俺を幾度となく鎌倉から逃そうとしたのも、そのためか」
義高の言葉に、頷く姫。
「でも、結局はわたしの方が先に折れてしまいました。義高さまを遠ざけようなどと、初めから無理な話だったのです」
だって――。向かい合い、姫は義高の胸に顔を埋める。
「ずっと、ずっとわたしは、義高さまのことをお待ちしていたのですから」
「……ありがとう、姫」
義高は姫を、力一杯抱きしめる。姫は義高に抱かれ、腕の強さに破顔する。梢が風で揺れ、零れた一抹の月影が二人を照らした。そして、義高の取り出した小太刀の刀身が、銀色の光を冷たく纏う。
いい雰囲気なところ、申し訳ないんですがね。義高の耳元で、東の声が囁く。そろそろ、お時間です。
「そろそろ、いかねばならんようだ」
「……もう。無粋な刻限もあったものですね」
顔を上げた姫は、相好を崩したままだ。彼女ほど可愛らしく、強い女性はあの世にもそうはいまい。義高の顔にも屈託のない笑みが浮かぶ。ささやかな未練など、大輪の向日葵の前には木っ端も同然であった。
「わたしは後、十二年も生きなければなりませんが……」
「案ずるな。今度は、俺があの世で待つ番だ」
「決して、側室など迎えられませんように」
「解っている。俺に必要なのは、姫だけだからな」
宵闇の中でも分かるくらいに、かっと姫の顔が赤くなる。
「なれば、きっとあの世で丈夫な和子様を産んでみせますっ」
「父上も喜ぶな。あの世で退屈しているだろうから」
「名前、考えておいて下さいね?」
「勿論。俺と姫の子だ。いい名前を付けてやろう」
風が凪ぎ、矢継ぎ早な会話が途切れ、再び二人の世界は闇に包まれる。迎えが来たのだ。義高は首筋に、そっと小太刀を当てる。冷たさが肌を僅かに泡立たせたが、恐れはなかった。一度はもう飛んだ首だ。
「では、暫しの別れだ」
「……はい。道中、お気を付けて」
初めての口づけを交わし、義高はすっと、刃を走らせる。
「お慕いしております、ずっと……」
全身に義高の温もりを浴びながら、大姫はゆっくりと、眠りに落ちていく。
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