《終章》
義高が自刃して後、二年が経った文治二年(1186年)四月。既に壇ノ浦で平家は滅び、世の中が一応の平穏を取り戻そうとしていた、暖かな春のある日。
鎌倉御所の近くにある鶴岡八幡宮前には多くの人達が詰めかけていた。皆の目当ては、今日ここで舞を披露するという白拍子、静御前である。鎌倉の繁栄を祈り、舞を奉納させようという頼朝の催しであった。
あれが九郎判官殿の……。宮の回廊に現れた男装の舞姫に、見物人の目が釘付けになる。それは居並んだ御家人達も同じことであった。都一と称される程の舞の名手で、なおかつ、英雄から一転、兄である頼朝と袂を別ち、凋落の道を辿った源義経の愛妾。人々の目を引くには十分すぎるほどの肩書を、静は持ち合わせていた。
お可哀想に……。
居合わせた御家人の一人、安達新三郎は、好奇の視線を集める静に同情の思いを抱いていた。
京を落ち、行方不明となった義経の居場所を聞き出すため、静は鎌倉に召し出された。愛する義経を貶めた頼朝と同じ鎌倉にいるだけでも、彼女にとっては大変な苦痛の筈である。そこへさらに、舞を無理強いさせられる彼女の心中は、新三郎が考える以上に屈辱を感じているに違いなかった。
静の世話役を任ぜられ、彼女の思いも十分に知っている新三郎には、今は見るに耐えない状況である。この場には御家人達だけでなく、高座の御簾越しに、御所様や御台様もおられる。せめてこのまま、何事もなく終わってくれれば良いのだが。
しかし新三郎の願いは、静が舞を始めた途端に打ち砕かれることになる。原因は、彼女の吟じた歌であった。
吉野山
峰の白雪 踏み分けて
入りにし人の あとぞ恋しき
場に、静かなどよめきが起きた。思わぬ事態に、新三郎も目を見開く。吉野山で別れたあの人が恋しい――これは間違いなく、謀反人とされた義経殿を慕う歌だ。
困惑する周囲を尻目に、さらに静は舞い、歌を続ける。
しずやしず
しずのおだまき 繰り返し
むかしを今に なすよしもがな
ざわめく声が、一層大きくなる。新三郎は思わず顔を覆った。昔のように、義経殿と暮らしたい。昔のように、憎いあなたを流人に戻してしまいたい――静はこの祝いの席で、真正面から頼朝を挑発しにかかったのだ。
やがて舞が終わっても、場は静まり返ったままであった。皆が固唾を飲んで、高座の頼朝がどう動くかを見守っている。御簾の向こうで、頼朝が顔色を変えて怒っているのは明らかだった。平家を討ち名実ともに武家の棟梁となった彼が、いくら都一の踊り手とはいえ白拍子などという卑しい者に、これ以上ないほど侮辱されたのだ。しかも、多くの者の目の前である。このまま黙って引き下がれば、源家の威信に関わりかねない。
静殿の命も、ここまでか。絶望し、うな垂れる新三郎。その耳に、何処からか場違いな音が飛び込んできた。
ぱちぱちぱち――。
御簾の向こうから聞こえてきたのは、小さな拍手の音であった。
「見事な舞でした、静殿。さすが、京一番の踊り手と謳われることはありますね」
穏やかな少女の言葉が、沈黙の中にあった座の中で、鈴の音のように響く。
大姫様だ……。頼朝でもなく、政子でもなく、長女の大姫が声を発したことで、三度、ざわめきが起きる。
「義経殿を思う、静殿のお気持ち。感服いたしました」
大姫は広がる潮騒に構わず、言葉を続ける。
「わたしも昔は、愛する人のために色々と無茶をしたものです。父上に反目したり、閉じ込められた寺から抜け出したり。でもそうして、永久の契りを交わすことが出来ました」
万座のざわめきが、次第に小さな苦笑いへと変わっていく。また姫様ののろけ話が始まった。誰かが呟く。彼女と、彼女が愛した人――義高との由は、鎌倉の誰もが知っていることである。他ならぬ姫が、皆が飽きてしまう程に話したがるからであった。
「ここにいる母上も、父上と一緒になるために二人で伊豆権現に駆け込んだと聞いております」
いつしか張り詰めた空気はなくなり、すっかり和やかな雰囲気が場を覆っていた。毒を吐いた当の静でさえ、予想外の展開を前に、呆気に取られているようであった。助かった。新三郎は安堵の息を吐く。
「女の身に生まれたならば、常に、静殿のようにありたいものです」
大姫の慈愛に溢れた言葉が、その場を柔らかく締めくくった。
「姫様!」
御所へ戻り、部屋に入ろうとした大姫に声がかけられる。駆け寄ってきたのは、あれから少し大人の顔つきになった小太郎であった。
「先程は、お見事でした」
「ありがとう。私も父上に、ささやかな仕返しが出来てすっきりしたわ」
元気な笑顔が、大姫の顔に浮かぶ。小太郎と同じく、少しだけ成長したその顔には、微塵の影も見受けられない。
「一時はどうなるかと肝を冷やしましたが……さすが姫様ですね」
義高が死んだ後、一度は木曽に返された小太郎。しかしこの時、彼は御家人として再び鎌倉で召抱えられていた。それが義高に対する、頼朝なりの罪滅ぼしだったのかは定かではない。
「小太郎には、とても出来ぬことです」
「ふふ……」
感心する小太郎に、含みのある笑みを向ける姫。勿論、何も知らぬ小太郎がその意味に気付くことは出来ない。解るとすれば、あれ以来姿を見せない、天の使者を名乗った男ぐらいだけど――。
呼びましたか?
もう、ひどく懐かしく思える声が、耳元で囁かれる。
いたの?
ええ、ずっと。
声なき言葉が、二人の間で交わされる。
姫様は無茶をなされますから、ちゃんと見ておかなければと思いまして。
なら、今日のことは?
……見なかったことにしておきますよ。
大儀そうに頭をかく東が、脳裏に思い描かれる。
御台様が仰る筈だったことを、姫様が申されただけですから。
ありがとう、東。
ですからあと十年、大人しくしていて下さいよ。
それきり、また彼の声は聞こえなくなる。後に残ったのは、不思議な顔をして小首を傾げた小太郎だけ。
「どうか、されたのですか?」
「いえ。何でもないわ」
あと十年。それは前回、心と体を病み、若くして死んだ大姫が寿命を迎えた時である。
過程は変えることが出来ても、結果を変えることは許されない。それが二度目の生を受けた者に定められた由であった。故に姫は後十年、かつての自分が振舞ったように生き、死ななければならない。
しかし姫の心は晴れやかだった。今度は、義高さまが待ってくれている。愛する人がわたしの死を心待ちにしてくれている。大姫の心は、それだけで満足だった。天に召された後、どう義高と暮らそうか。どんな話をしようか。子供の名前はどうしようか。どんな子に育つだろうか。考えている内に、きっと十年なんて、すぐに過ぎてしまう。
義高さま……。自然と、大姫は空を仰ぐ。
「今日は、とても良い日和ね……」
「はい。とても」
明るい日差しに、二人は目を細める。抜けるような青い空には、点々と浮かぶ白い雲があった。天にゆけば義高と、あの雲に乗ることも出来るのだろうか。卯月の暖かな陽光に包まれながら、姫はそっと、白雲に向けて手を伸ばした。
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